東芝のMRI創世記
個人的回顧録としてのMRI曼荼羅・・・・・懐かしい日々の追憶
佐藤 幸三
1.はじめに
2.東京大学物性研究所・安岡研究室との共同研究(1979/4~1984/3)
3.東芝総合研究所~研究開発センター時代(1984/4~1999/3)
4.おわりに
Episode(1.~16.)
Appendix(1.~4.)
1.はじめに
最初は一人寂しく孤独なNMRでしたが、素晴らしい人々との出会いにより豊穣のMRIを堪能することができました。隠遁生活の今、NMRと摩訶不思議な運命の糸で繋がっているといった不思議な感懐が髣髴として湧き上がってきます。
MRIはX線のような電離放射線を使用せず病変の描出能に優れた画像診断装置で、今や臨床現場に広く普及し、日常診断に不可欠な診断装置になっています。1970年代初頭から欧米の研究機関を中心に、ローターバーやマンスフィールド(1998年ノーベル生理学・医学賞受賞)らによって基礎的研究が行われ、1970年代末から80年代初頭にかけて、X線CTに続く実用化を目指した激烈な開発競争が展開されました。
ここでは、東芝におけるMRIの研究開発の草創期に携わった一個人としての記憶の残照の一端を、プルーストの「失われた時を求めて」に肖って、往時の記憶を紐解きながら回顧したいと思います。MRIの創成期/黎明期から研究開発に携わることができたことは幸運この上ないことでありました。独りよがりな独断と偏見に満ちた内容になることを恐れずに、多くの素晴らしい人々との出会いに焦点を当てて、若干のエピソードも交えながら往時を追憶したいと思います。
2.東京大学物性研究所・安岡研究室との共同研究(1979/4~1984/3)
1979年4月、東京大学物性研究所・安岡研究室を拠点にして、当研究室のNMR(核磁気共鳴)計測技術と東芝のCT技術を融合させ、欧米諸国に先駆けて実用的なNMR-CT(当時の名称)を実現すべく産学連携の共同研究プロジェクトがスタートしました。以下、“東芝のMRI創世記年表”(本稿p.6に掲載)に即して経緯を説明したいと思います。
1979年12月だったと思いますが、津田俊信先生(後に埼玉大学副学長)が構築されていた「鉄シム方式の装置」を筆者が継承させていただいて、真空ゴム管の画像化を実現しました(1980年1月)。いわゆる磁場焦点法と言われる方式で、X線CT装置のスキャン方式ではペンシルビームを用いた第一世代(Translate/Rotate方式)に相当するものです。
当時の東芝のプレゼンスは零に等しく、国内外の大学等の研究機関ならびに企業に対して大きく立ち遅れていました。「時は金なり!」、無駄なことは一切せずにゴールに向かって邁進する以外道はありませんでした。実用的ではないと思えた磁場焦点法には早々に見切りをつけて、実用的なイメージング手法の開発に舵を切る必要がありました。この時点での研究開発の基本方針と最優先課題はAppendix1.(基本方針と最優先研究課題)に示した通りです。
当面はローターバーによる投影再構成法(Lauterbur PC. Image Formation by Local Induced Interactions : Examples Employing Nuclear Magnetic Resonance. Nature 1973; 242, 190-191)を採用し、次のステップとして可及的速やかにMRIに対する適合性の優れたエルンストらのFourier法(Kumar A,Welti D,Ernst RR. NMR Fourier Zeugmatography. J Magn Reason 1975; 18: 69-83)に切り替えることを基本方針にしました。投影データが取得できる本方式では、既に製品化されていたX線CTの再構成アルゴリズムが変更なしに適用可能でした。これ以降の研究はこのような考えのもとに実施し、まずは線形勾配磁場を用いた静磁場変調方式によりレンコンの画像化を達成しました。1980年4月30日に新聞発表し、日経新聞(5月1日)、朝日新聞、毎日新聞等に順次掲載されました。後日、NHKのTV撮影が安岡研究室で行われ、安岡先生がTV出演を果たされました。
30mmφの被写体が撮影可能な60mmギャップの鉄心電磁石(18MHz)を用いたCW法により、数分間で取得した5度おきの36投影データから再構成したレンコン、ラット、鶉の卵などの画像(空間分解能0.3mm)をNMR-CT(Ⅰ)のタイトルで、1980年秋の日本物理学会に発表しました。(杉本博さん他連名)(→p.7にレンコンの断層画像)。物理学会での最初の発表ということもあってか、磁気共鳴分科会の発表会場に入りきらず廊下にまで聴衆があふれるような大盛況で、発表が終わるや否や、閑古鳥が鳴くような状態になり、次演者には申し訳ない思いがしました。NMR-CTに対する関心の高さを実感したシーンでした。その後も、物理学会において毎回発表をしました(通し番号Ⅱ~Ⅸ)が徐々に関心が薄れてきたので、1985年の秋季大会を最後に他の学会での発表に移行していきました。
続いて、CW法からパルスFT―NMR法に移行し、スライスをコイル感度で行うという不完全極まりない方法によりオクラの画像化を達成し、1981年春の日本物理学会で発表しました(→p.7にオクラの断層画像)。1981年7月25日、第1回核磁気共鳴医学研究会(富士フィルム本社講堂)にて、井上多門さんが「NMR-CT共同研究PJ」の中間成果を「NMR―CT開発の基礎実験」の標題で総括発表し、東芝のプレゼンスをPRしました。
50mmφまで撮像可能なヘルムホルツ型空芯マグネット(0.14T)(p.8)を用いて、今思えば完成度は低いものの選択励起法によるスライスが可能なパルスシーケンスにより、自作ファントムの画像化によるシステム評価を行い、1981年9/17~19に日経ホールで開催された第4回CT物理技術シンポジウム、続いて1981年秋の日本物理学会で発表しました(鈴木宏和さん他連名)。日本物理学会では、当初より興味をもっていたEPIの基礎実験(読み出し勾配の超高速多重反転による勾配エコー列の解析)を行い、エコーピークと位相のずれの原因についてブロッホ方程式に対する計算機シミュレーションもどきの予備的考察を行い、NMR-CT(Ⅲ)のタイトルで成果発表しました。後々、超高速MRIのプリスキャンに繋がる先駆的研究成果だったと思います。
1981年秋までに、投影再構成法による基本的イメージング方式が確立し、鈴木宏和さんを介して医療機器事業部に技術移管を行いました。1982年春の日本物理学会では、それまでの物性研究用鉄心磁石の代わりにMRI用に開発したヘルムホルツ型空芯磁石@5.9MHzを用いたコンパクトなMRIシステムを完成し、NMR-CT(Ⅳ)のタイトルで試作ファントム・レモン等の画像化について成果発表しました(→Episode5.(巨瀬勝美先生の思い出))。
同時期に東芝医用機器事業部と東芝総合研究所(現、研究開発センター)のNMR-CT開発プロジェクト(那須工場・CT技術部長の鈴木徹さんがリーダー)がスタートし、大井町の東芝中央病院(現、東京品川病院)に那須工場でシステム統合した常電導MRI(Bruker社製4コイル型常電導磁石使用)の据付・調整を行い(1982年3月末頃開始)、間もなく人体の心臓撮影が可能なことを確認しました(→p.8に断層画像)。巨瀬勝美・佐藤幸三(東芝総合研究所)、鈴木宏和(東芝医用機器事業部)、佐藤昌孝・武藤安弘(東芝メディカル)、五島仁士(東芝中央病院放射線科)の精鋭6名が常駐メンバーでした。
据付当初の画質は臨床評価に耐えるには程遠い劣悪としか言いようのない代物でした。生データの前処理の改善、プローブのSN比向上など、文字通り取っ替え引っ替えの対策を実施して、漸くのことで所定の画質水準を達成することができました。基本的な撮像用パルスシーケンスはSE法を採用しましたが、SR(飽和回復)法やIR(反転回復)法によるT1強調像、T2強調像のコントラスト最適化には、TR、TE、TIなどの撮像パラメータの最適化が必要で、長時間に及ぶ試行錯誤を重ねました。MRIの設置場所が京浜東北線大井町駅に隣接する踏切の近傍にあり、電磁的及び振動的に劣悪な環境下において良好な臨床画像を取得するために悪戦苦闘しました。これにより、サイトプランニングや磁気シールドなどに対する貴重な知識とノウハウを獲得することができました。忙中閑ありと申しますが、画質確認目的の実験と称して、大井町駅前の阪急百貨店で購入した高級メロンやスイカの画像を撮影しました(→p.8にメロンの断層画像)。本当の目的は言わずもがなですが・・・。
1982年5月には報道機関に対して成果を発表し、引き続き、東京大学医学部(当時、放射線科医局長の荒木力先生ご担当)の指導の下、薬事法(現、薬機法)に基づく製造販売承認を得るための治験データの収集を開始しました。3か月程度の短期間で薬事承認の申請に必要な30症例の治験データの収集が完了し、関係者による盛大な打ち上げを兼ねた慰労会が開催されました。プロジェクトリーダーの鈴木徹さんが八代亜紀の「舟歌」を熱唱され、座が大いに盛り上がりましたが、「お酒はぬるめの燗がいい 肴はあぶったイカでいい」の歌詞に、安岡先生に随行した高知出張時の烏賊の緩和時間測定のことがフラッシュバックし、一瞬にして酔いがさめた心地が致しました(後日、鈴木徹さんは鈴木宏和さんの結婚披露宴では、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を声高らかに朗唱されました)(→Episode3.)。
少々話が長くなりましたが、脱線ついでということで、東芝中央病院での山川和夫先生との出会いを紹介したいと思います。当時、東芝中央病院にも非常勤で勤務されていた東大病院内科の山川和夫先生(後に日本腎臓移植ネットワーク理事長など歴任、2008年58歳の若さで急性心不全により逝去)は、NMR-CTにも高い関心をお持ちで、時々コンソール室近辺に出没されていました。画質確認のために行った正常ボランティアの心電図同期による心臓撮影が上手くいかず、画像が大きく乱れるということがありました。早速、頭脳明晰にしてフレンドリーこの上ない山川先生にご相談すると、立ちどころに「WPW症候群という不整脈が原因だと思います」とのご指摘で、超多忙な診療の合間を縫って詳細な不整脈に関するレクチャーまでやっていただきました。御尊父も若くして心筋梗塞で急逝され、「MRIの心疾患診断への適用に大変興味があります」といったお話を伺った記憶があります。後日、大学で心電図の講義を担当する機会がありましたが、この経験が大いに役立った次第です。先生とは同年生まれですが、改めてご冥福をお祈りしたいと思います。
翌年の1983年5月には厚生省から薬事承認が得られ、国産初のNMR-CTとして製品第1号機を東京慈恵会医科大学付属病院に無事納入することができました(→p.8に写真掲載)。1983年度の日経製品賞最優秀賞、日刊工業新聞社十大新製品賞(MRI国産第一号)をダブル受賞することができました。
米国では海外各社の臨床研究用MRI装置が稼働していましたが(例えば、Damadian のFONAR 社はRSNA1980に“商用機”展示)、本物の商用機としての認可は米国FDA(食品医薬品局)から取得していないことが判明し、日本初の商用機は世界初の商用機になりました(→東芝未来科学館(https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1982mri/index_j.htm))。
サリドマイド薬害の影響もあってか、海外メーカーには米国での製造販売に必要なFDAの承認はPMA(Premarket Approval) 止まりで最終的承認は出ていなかったようです。意外にも厚生省による承認が早期に得られたことにより、後発の東芝が世界初の製品化の栄誉に浴することになりました(→東芝レビュー2014年Vol.69 No.2;杉浦聡志、岡本和也)。尤も、同じく1983年には国内の競合他社からもMRIの製品発表が相次ぎ、競馬でいう鼻の差一着といった感じで、自慢するのも烏滸がましいことだと思います。
人体用MRIの成果は、1982年秋の日本物理学会において、NMR-CT(Ⅴa)「人体用MRI(ファントム画像)」およびNMR-CT(Ⅴb)「人体用MRI(人体頭部・脊髄画像化)」として発表し、高い評価を頂きました。
臨床画像の多くは、荒木力先生によりMRIの本邦初の教科書となった記念碑的著作「NMR-CT入門(南江堂);1984年1月20日発行」において公表されました。荒木先生には南江堂からMRI「再」入門-臨床からみた基本原理(1999年9月20日発行)という名著がありますが、座右の書として大事に活用させていただきました。実は、光栄なことに荒木力編著という形で筆者に分担執筆を依頼されましたが、業務繁多にかまけて、度々の督促を兼ねた励ましにも拘わらず、ご期待に沿うことができませんでした。出版が大幅に遅れ大変なご迷惑をお掛けしましたが、筆者が那須の方に単身赴任しておりました時に、郵送にて献本していただきました。20数年を経て今や時効?だと思いますが、この場を借りて改めて陳謝申し上げます。
製品概要については、巨瀬勝美他「NMR-CTスキャナー」(東芝レヴュー1983年 Vol38-8号)に掲載されました。
約半年間にわたる病院勤務の後、再び物性研究所に拠点を移し、今後の研究についてじっくりと戦略を練ることができました。並行して、固体物理の応用「NMRイメージング」(1983年 Vol.18 No.2)を執筆し、筆者なりの総括を行いました(→Appendix3.)。
巨瀬さんとの刺激的な議論の結果、鉄心磁石(1T)と空芯磁石(0.15T)を用いた二種類のNMR-CTシステムを用いて、MRIの物理・化学分野に対する応用研究に取り組むことにしました。興味深い研究テーマのアイデアは数多ありましたが、手始めとして、巨瀬さんはフローイメージングへのMRI応用、筆者は化学シフトイメージングの研究に取り組むことになりました。このような経験を踏まえて、後日、医用画像診断装置(コロナ社)に「in vivo 多核種NMRスペクトル」を分担執筆することになりました(→Appendix4.)。巨瀬さんの獅子奮迅の活躍もあって想定以上の研究成果が得られ、学会発表のネタにも事欠かないという研究者冥利に尽きるという状況が出来しました。
しかしながら4年間に及んだ共同研究にも一区切りをつけざるを得ないような状況になり、六本木から川崎の総合研究所に研究拠点を移すことになりました。大学院進学から入社後も含めて、六本木で12年間の長きにわたって優雅な研究者生活を謳歌したにもかかわらず全く垢抜けしないままでしたが、いよいよ川崎の東芝総合研究所に移り、タイムカードのある会社人生に突入することになりました。
聊か人間臭い思い出につきましては、以下のEpisodeをご一読ください。
Episode1.(筆者にとってのNMR事始め・・・大学/大学院時代)
Episode2.(自由闊達な物性研時代の思い出)
Episode3.(安岡弘志先生(後に東大物性研究所所長、東京大学総長特別補佐など歴任)の思い出)
Episode4.(井上多門先生の思い出)
Episode5.(巨瀬勝美先生の思い出)
3.東芝総合研究所~研究開発センター時代(1984/4~1999/3)
東大物性研究所から川崎の東芝総合研究所に研究拠点が変わり、新たに研究基盤の整備をゼロから始めることになりました。井上多門先生が1984・9月に筑波大学に転出され、巨瀬さんと筆者は電子機器研究所・MEグループに異動になりました。物性研時代とは異なる会社の研究所に合致したやり方が求められ、大きな戸惑いを感じながらもグループ長の伊藤阿耶雄さん(後に超音波事業部長など歴任)の全面的にして激烈なバックアップにより、「次世代MRIの研究開発」へと邁進することになりました。この間の聊か人間臭い出来事についてはEpisode8.(「次世代MRI」の研究企画)をご一読いただければ幸いに存じます。
以下、「次世代MRIの企画書/実行計画書」に基づいて実施したⅠ(超高磁場MRI/MRSI)とⅡ(超高速MRI)について、研究成果を中心に述べたいと思います。
3.1 次世代MRIの研究開発-Ⅰ(超高磁場MRI/MRSI)
本研究には参画期間の長短と時期は様々ですが、岡本和也(企画書段階以前からのメンバー)、菊池尚志(後に東京電子教授)、鈴木義則、守清己、カルデロン・アルツーロ、渡辺英宏(後に国立環境研究所領域長)、石原康利(後に明治大学専任教授)、石原美弥(後に防衛医科大学校教授)、梅田匡朗および筆者の10名が参画しました(敬称略)。
1985年3月に「次世代MRI」に関する研究企画を開始し、11月に実行計画書を策定、直ちに「次世代MRI」の研究開発に着手しました。超電導磁石を含めた全システムを研究所内で開発したこともあり、漸く3年後の1988年には動物実験用小型4.7T-MRIシステムが立ちあがり、1990年には空間分解能100μmの猫頭部血管像、ボクセルサイズ1ccの猫頭部31P-MRSI、同0.1ccの猫頭部1H-MRSIなどのデータが得られるまでになりました。医学的有用性の評価に関しては、東海大学医学部との共同研究により猫静脈洞閉塞モデルに関する脳内代謝の研究を行いました。1990年から体内非侵襲温度計測に関する研究を大阪市立大学と開始し、1992年には位相法による高速温度計測技術を確立しました。1991年には猫頭部のT2*強調猫頭部画像を取得し、微細な頭部血管を描出することができました。以上の研究成果は1993年「統合画像診断MRI」基盤技術として事業部に業務移管しました。
1992年より13C-MRSに関する研究を開始し、1994年には2Tで13C-MRSが可能なMRI&Sシステムを創価大学に納入することができました。引き続きNEDO委託プロジェクト(1994~1999年)として研究開発を進め、13C標識グルコースのヒト脳内代謝を世界に先駆けて画像化し、1997年東芝技術展において“脳機能イメージング”として成果を発表しました。1998年にはプロジェクトの目標であった8cc/20分での13C代謝物画像化を実現することができました。その後、研究開発グループは事業部へ異動し、引き続き厚生省(現、厚労省)のプロジェクトとして2年間に及ぶ13C-MRSの臨床評価試験を行いました。以後、研究開発センターにおける研究成果の製品化を進め、1999年には1H-MRS、2002年にはマルチ表面コイルの製品化を達成することができました。
本テーマでは、渡辺英宏さん(後に国立環境研究所領域長)が「炭素-13磁気共鳴を用いた非侵襲的脳代謝計測法の研究(東京大学)」で、石原康利さん(後に明治大学専任教授)が「水プロトン化学シフトを利用した生体内温度計測法に関する研究(長岡技術科学大学)」により博士の学位を取得しました。
この間の聊か人間臭い出来事については以下のEpisodeをご一読いただければ幸いに存じます。
Episode7.(逢坂昭先生の思い出)
Episode8.(「次世代MRI」の研究企画)
Episode9.(4.7T超電導磁石の開発)
Episode10.(第18回日本磁気共鳴医学会(1991年秋季大会)熊本(高橋大会長)などの思い出)
Episode11.(ちょっぴり苦い「思い出のサンフランシスコ」)
Episode12.(平野修助先生の思い出)
3.2 次世代MRIの研究開発-Ⅱ(超高速MRI)
本研究には期間の長短と時期は様々ですが、巨瀬勝美(後に筑波大学名誉教授)、菊池尚志(後に東京電子教授)、久原重英(後に杏林大学教授)、金山省一、近藤正史、葛西由守、油井正明および筆者の8名が参画しました(敬称略)。
超高速MRIの実現には勾配磁場の超高速スイッチングや超高均一静磁場が不可欠であり、さらに、これらの僅かな不完全性に対して極めて敏感なため、従来技術では大きなアーティファクト(偽像)が生じるという問題がありました。これらの技術的課題を克服し、他社に先駆けて実用的な超高速MRIを実現すべく研究開発体制を構築しました。まず第1ステップで、研究所内に設置した小型常電導MRIによる基礎検討からスタートし、1987年には京浜事業所においてレンコン画像を取得、続く1988年には那須工場においてビーグル犬の心臓画像を取得し、ついに1989年には東芝中央病院に設置した1.5T-MRIにより国内初のヒト頭部及び心臓の画像化に成功することができました。
第2ステップとして1990年には医用機器技術研究所との共同プロジェクトがスタートし、1990年10月からは久原さんと金山さんの両名が那須工場に駐在して製品化を目指すと共に、脳機能イメージング技術の開発も推進しました。この後、諸事情により一旦製品化プロジェクトは中断となりましたが、1995年4月に再び研究開発センターと那須工場が一丸となった全社的な取り組みである「機動部隊」をスタートさせ、4名の研究者が那須工場に駐在して製品化に取り組みました。1997年4月、機動部隊メンバーが医用機器技術研究所に移籍し、1998年に超高速MRIを搭載した製品1号機(Visart EXシステム)の出荷を実現することができました。正に企業研究者としての使命と執念が結実した瞬間でありました。
このような超高速勾配磁場スイッチング機能を備えたMRI装置では、全てのMRI全撮像法の高速化が可能になり、現在では超高速MRI撮像が標準搭載となっています。さらに、超高速MRIに基づくfMRI(脳機能イメージング)が医療の枠を超えて脳科学分野における必須の研究用ツールになるなど、その適用範囲は益々拡大の一途にあることは言うに及びません。
本テーマでは、久原重英さん(後に杏林大学教授)が「超高速MRIの画像再構成法と実時間MRIシステムとしての実用化に関する研究(九州大学)」で、金山省一さんが「医用磁気共鳴映像計測における高速画像化システムの研究(豊橋技術科学大学))により博士の学位を取得しました。
以上、概要のみを記載しましたが、この間の聊か人間臭い出来事については以下のEpisodeをご一読いただければ幸いに存じます。
Episode6.(榎本義雄先生の思い出)
Episode13.(超高速MRIのジプシー的な思い出)
Episode14.(久原重英先生の受賞)
Episode15.(瀬尾育弐先生(2005年紫綬褒章受章、駒澤大学名誉教授、
日本心霊科学協会理事長)の思い出)
Episode16.(上野照剛先生(元九州大学、東京大学教授)の思い出)
4.終わりに
人間臭いEpisodeを盛り込みすぎたせいか私の履歴書風で冗長な一文になってしまい、巨瀬先生の要請内容から大きく逸脱してしまったかと危惧、反省しています。
筆者の会社人生は、入社時に事業部の那須工場・医療機器技術研究所に配属され、諸事ありまして一年ちょっとで川崎の総合研究所に転籍になり、約20年後に出戻りのような形で那須への単身赴任、といった「振出しに戻った双六遊び」のような経緯を辿りました。幸いにして、1999/4~2008/3の9年間の長きに及びました那須工場勤務時代には、温泉とゴルフを満喫することができました(→Episode15.)。この間、NHKのプロジェクトXという番組の候補になり、数回のインタビューなどの取材を受けましたが、番組終了に伴い急遽立ち消えになったのは残念なことでした。
心ならずも多種多様な管理職業務を渡り歩くことになり、MRIの研究開発とは日々遠ざからざるを得ない中、JSMRMの方は幽霊会員状態でしたが、年に一度の大会には欠かさず出席させていただきました。断捨離に向けて、帝京平成大学の70歳定年退官を期にJSMRMを脱会する決断を致しました。
2016年12月に東芝メディカルシステムズ(株)はキャノン(株)に買収され、2018年1月4日、キャノンメディカルシステムズ(株)に社名変更されました。社名は変わりましたが、新天地において大いなる飛躍・発展を遂げていることはこの上ない喜びであります。
いささか蛇足ぎみで恐縮ですが、Appendix3.においてMRIのノーベル賞受賞に対する筆者の考えを述べさせていただきましたので、ご一読いただければ幸いに存じます。
末筆ではございますが、本稿執筆の機会を賜った巨瀬勝美MRIsimulations Inc.代表取締役 共同CEO/COO (筑波大学名誉教授)に拝謝申し上げます。
Episode(懐かしい思い出)
Episode1.(筆者にとってのNMR事始め・・・大学/大学院時代)
Episode2.(自由闊達な物性研時代の思い出)
Episode3.(安岡弘志先生(後に東大物性研究所所長、東京大学総長特別補佐など歴任)の思い出)
Episode4.(井上多門先生の思い出)
Episode5.(巨瀬勝美先生の思い出)
Episode6.(榎本義雄先生の思い出)
Episode7.(逢坂昭先生(国立予防衛生研究所部長)の思い出)
Episode8.(「次世代MRI」の研究企画)
Episode9.(4.7T超電導磁石の開発)
Episode10.(第18回日本磁気共鳴医学会(1991年秋季大会)熊本(高橋大会長)などの思い出)
Episode11.(ちょっぴり苦い「思い出のサンフランシスコ」)
Episode12.(平野修助先生の思い出)
Episode13.(超高速MRIのジプシー的生活の思い出)
Episode14.(久原重英先生の受賞)
Episode15.(瀬尾育弐先生(2005年紫綬褒章受章、駒澤大学名誉教授、
日本心霊科学協会理事長)の思い出)
Episode16.(上野照剛先生(元九州大学、東京大学教授)の思い出)
Episode1.(筆者にとってのNMR事始め・・・大学/大学院時代)
大学紛争による長期間休講の後、本郷の東大物理学科に進学して間もなくのころ、原子核実験の山崎敏光先生(μSRの第一人者)の指導の下、スリクターの原書「C.P.Slichter. Principles of Magnetic Resonance」の輪講に参加したのが筆者にとってのNMR事始めでした。完読するには至らず、中途半端な理解に終わりました。後日、益田義賀、雑賀亜幌訳の「磁気共鳴の原理」(岩波書店,1966)も合わせ座右の書になりましたが、当時は、生涯にわたりNMRの恩恵に浴することになるとは夢想だにしませんでした。
大学院は東大物性研究所(@六本木)の菅原忠先生の研究室配属になり、修士課程では自作CW-NMR装置を用いて修士論文「ゼオライトに吸着した3He原子のNMRによる研究」、博士課程では自作パルスNMR装置を用いて博士論文「3He単分子膜のNMRによる研究」 を執筆することができました。手作りのパルスNMR装置は竹中久助手(後に、いわき明星大学科学技術学部教授)にご指導いただいて、1年がかりでなんとか完成させることができましたが、この経験はMRIの研究でも多いに役だった次第です。なんとか博士論文を元に、タイトル“Pulsed NMR Study of Submonolayer and Multilayer 3He Films adsorbed on Grafoil” J. of Low Temperature Physics Vol.38,Nos.1/2,1980)の査読論文はでっち上げたものの、往時は就職難の時代で、実験装置の作製に明け暮れて論文数も少ない身には、オーバ―ドクターの道しかなく、2年間ほど研究生として勝手気ままな日々を送っていました。幸運なことに、菅原研究室で高柳滋助手(後に北海道教育大学教授)が取り組んでおられた核断熱消磁用の作業物質の一つであるPrIn3のCW-NMRの信号の観測に世界で初めて成功し(喜びのあまり興奮して廊下を駆け抜けるというNMRでの信号初観測の醍醐味を味わうことができました)、これを契機に物性研究用NMRのメッカである憧れの安岡研究室に出入りを許され、北岡良雄技官(後に大阪大学基礎工学部教授)との共同研究として、日本高周波製の1GHz広帯域パルスNMR装置による緩和時間(T1、T2)(140MHz@0.6T)の測定を行いました。北岡さんの実験センスは抜群で、今でもギネスブックに登録できると思いますが、スピンエコー法で0.43μsという極めて短いT2緩和時間の直接測定に成功し、論文発表に漕ぎつけることができました(“Spin-Echo Studies of 141Pr Nuclear Relaxation in a Singlet Ground State System Pr1-xLaxIn3” J.Phys.Soc.Japan Vol.50,No.2,1981)。
時間が少々前後しますが、東北大学の斎藤慎八郎先生が共同利用で来られ、筆者と3Heと磁性体の間の磁気的カピッツァ抵抗についてNMR緩和時間による共同研究を行いました。このような関係で、当時、修士課程に在籍されていた塙政利さん(後にMRI事業部長)とは全く面識はありませんでしたが、3人連名の共著論文が専門誌に掲載されることになりました。塙さんが修士2年の3月末に物性研究所にひょっこり来られ、「東京の会社に無事就職して医療機器(どうやらCT技術担当だったようです)の仕事に従事することになりました」との挨拶をされました。数年経った1980年3月1日、筆者の那須工場配属初日に、ご当人の顔を見かけて大変驚いた次第です。その後、塙さんはMRI開発担当技術者になり、筆者がUCSF-RILに出張した際には委員会の事務方スタッフとして心強いサポート役をしていただきました(→Episode11.)。斎藤先生を通じた不思議なご縁だったかと思います。
1980年3月をもって指導教官の菅原忠先生が定年退官されることになり、切羽詰まった筆者は駄目もとで受験した上級国家公務員試験に無事合格を果たし、狭き門の工技院系某研究所の面接を受けました。採用には至らず、当方に暮れていたところ、安岡先生から「東芝でNMR-CTの研究をやってみないか?」という、将に地獄に仏に会ったような有難いお誘いを受け、間髪入れずに東芝の面接試験を受けることになりました。当日、面接官から「NMR-CTは第2のX線CTになりますか?」との質問があり、「可能性大だと思います!」と即答して、無事合格の運びになりました。入社は3月1日(中途採用)で、それまでの2か月余り無給ではありますがNMR-CTの研究に早速取り掛かることになりました。後日、初任給16万9千円也が2回も銀行口座に振り込まれ、無給労働のご褒美かと思い、念のため会社に報告するや、「間違って振り込んだので、即、戻入するように!」とのそっけない答えが返ってきました(当時の上長は筆者にとって入社当時の大恩人の田之上司さん(後に国際医療福祉大学教授))。
物性研究所には「物性研談話会」という国内外の著名研究者を招聘して、希望者は誰でも講演が聴講できるという有難い催しが頻繁に開催され、ノーベル物理学賞を2度までも受賞したバーディーン先生のご尊顔を拝する機会がありました。当時、先生はイリノイ大学名誉教授ですが、Lauterburもイリノイ大学教授であることを後日知ることになりました。1949年にFID(自由誘導減衰)/SE(スピン・エコー)発見したE.L.Hahn(論文はE.L.Hahn. Spin Echoes. Phys Rev 1950; 80: 580-594)も量子光学に関する最先端の講演をされましたが、「スピン・エコーの発見の重要性にいち早く注目したのが、NMRの教科書で有名なイリノイ大学教授のC.P.Slichterでした」とのお話をされたのを記憶しています。当初、スピン・エコー現象は熱力学の第2法則に反するので間違いだというイチャモンが付き物議を醸したとのことでしたが、隔世の感を禁じ得ないような逸話ではあります。
Episode2.(自由闊達な物性研時代の思い出)
筆者が参画する1年近く前になりますが、井上多門さん(当時は研究主幹、後に筑波大学教授、2005年ご逝去)が旧知の学友の伊藤雄而先生を通じて安岡先生を紹介されたのがきっかけだったそうです。今となっては隔世の感がありますが、当時は産学連携にたいしては否定的な雰囲気が色濃くありました。再構成については全く知識がないに等しい状態でしたので、東芝入社が決まった直後の1979年12月の初めに井上さんにお目にかかった折に、「再構成についてご教示ください」とお願いしたところ、「式で書いたら二行で終わり」などと茶化されましたが、本質はフーリエ変換なのでまんざらの冗談でもないことが分かりましたが、後の祭りということでした。
安岡先生の思い出は後ほど記載しますが、共同研究開始は清水の舞台を飛び降りるような勇断だったと思います。研究室のセミナーで井上さんがX線CTとNMR-CTの話をされたとのうわさ話を聞きましたが、「Physics Todayの表紙に頭の画像がのっていたあれかいな」位の、ちょっと興味を持った程度でした。津田先生がCW-NMR磁場焦点法によるNMR-CT装置(X線CT第一世代のT-R方式に相当)の立ち上げに携わっておられるのを横目で見ていたような感じでした。本文に記載したように、12月からは筆者が引き継ぐことになり、東芝の那須工場から杉本博さん(後にMRI技術部長)が一泊二日といった感じで協力していただいて、早速、T&R方式による投影データ収集に取り組むことになりました。最初は単純な被写体がよいということになり、真空ゴム管でデータをとって、紙テープ媒体で井上さんに手渡ししたところ、二三日後には絵が出ましたということで出力用紙を持参いただき、安岡先生はじめ幸先がいいということで多いに盛り上がりました。
その後、一方向の投影データが一度でとれる方式に装置を改造し(X線CTの第2世代に対応)、自作の水ファントムによる画像化確認後、直径2~3㎝程度の手ごろな被写体を選んで、確かに画像が作れることを確認することができました。被写体選びには随分と苦労しました。杉本さんと連れ立って六本木の明治屋六本木ストアを物色しましたが、プローブに挿入可能な手ごろな大きさの被写体は見つからず、近辺を探索した挙句、アマンド付近の八百屋さんでレンコンを買い求めたというのも懐かしい思い出です。何事もこんな感じで、スピード勝負の機動性重視で取り組みました。
数件の分厚い特許文献(大いに参考にはなるものの物理学に反するような記述も散見され、まさに玉石混交の“五里霧中”特許!)を手がかりに、わずか数ヶ月足らずという短期間で、ラットなどの小動物撮影も可能な、全てが手作りで小回り抜群のバラック仕立てNMR-CT装置を構築しつつ、早くも1980年1月にはゴムホースやレンコンなどの小さい対象物の画像化を達成し、1980年5月には新聞やNHKなどに成果を発表することができました(→本文参照)。
入社1年目は一人作業を強いられ、寂しい思いを多々いたしました。両手のみの千手観音ならぬ身としては致し方なく、アロンアルファでホルマール被覆銅線を固定しながら二日がかりで鞍型コイルを製作した際には、アロンアルファの気化成分で瞼が開かなくなるという危険極まりない悲惨な経験もしましたが、今となっては懐かしい思い出です。研究者工作室が整備された物性研では、聊か得意の旋盤やフライス盤を駆使して、被写体ホルダーを始め必要に応じて何から何まで手作りで作れるというのも魅力的でした。後日談になりますが、会社ではこのような臨機応変なやりかたは為すこと能わず、会社流のやり方に慣れるのには随分と苦労しました。
Episode3.(安岡弘志先生(後に東大物性研究所所長、東京大学総長特別補佐など歴任)の思い出)
先生は用意周到にして人間的度量の広大な方で、研究の細かいことには口出しは一切されず、筆者の自由裁量に任せて頂きました。当時、磁性体を始めとするNMRを用いた先導的研究で超多忙を極められておられましたが、頻繁に食事をご一緒する機会を設けていただき、この機会に進捗状況を報告し、サジェスチョンを頂く程度のやり取りでした。以下、安岡先生との数ある思い出話の一端を紹介させていただきます。
ダマディアンによって、癌化により緩和時間が2~3倍と大幅に延長し、画像のコントラストだけではなく、例えばMIという指標を使えば癌の定量的診断が可能になるという主張があり、当時は大いに注目されておりました。筆者は眉唾的な印象をもっておりましたが、実験的に確認する機会がありませんでした。ある日、安岡先生から御尊父が早期胃がんになり、高知中央病院で手術をする予定で、ついては、旧知の山形英樹(後に高知大学理学部物質科学科教授)研究室で摘出試料の緩和時間測定をしたいので、「会社に出張申請するように」とのご指示でした。前々日に、カーフェリーのサンフラワー号にて高知に到着、山形先生と3人で、昼食をとりながら作戦会議を開くことになり、土佐湾が一望できる須崎付近の展望レストランで寿司を食べることになりました。この時、持ち帰った烏賊のT1とT2を事前準備として測定しました。夜は、はりまや橋近くの料亭で土佐名物の皿鉢料理をご馳走になり、翌日、満を持して摘出資料の緩和時間を測定したところ、正常部位と癌化部位との差はごくごくわずかで、その上、烏賊の数値とほぼ同じという結果になり、「ダマディアンに騙された」という洒落にもない感懐を抱いたことを記憶しています。翌日、気晴らしを兼ねて高知城や龍河洞を見学しましたが、ヒグラシの悲しげな鳴き声が未だに耳に残っています。(後日、両者の差は歴然で、筆者の完全な早とちりであることが判明しました。汗顔の至りです! → 安岡弘志先生の寄稿文ご参照)
興味本位の単なるケーススタディーに過ぎないと思っていたところ、程なく、東大医学部の先生を巻き込んで貴重な医学論文として纏められた手腕には敬意を表する以外ありませんでした。先生は腐った卵の緩和時間の変化に興味を持たれ、ゆで卵をシールドルーム内に長期保管された結果、悪臭が漂うという騒ぎがありました。今にして思えば、イグノーベル賞狙いだったような気もします。
1982年10・16~18に名古屋工業大学で開催された第21回NMR討論会(高橋憲助会長)において、安岡先生が40分間に及ぶ特別講演「NMR-CTの展望」を行い、御尊父の早期胃がん摘出試料のNMR測定の結果に加えて数多の臨床画像を発表され、NMR討論会ならではの数多の論客との活発な質疑応答がなされました。講演直後の先生の晴れやかな顔と、夕食時にご馳走になった的矢湾(英虞湾?)産牡蠣の美味な味わいも、懐かしい思い出の一つになっています。
後日談になりますが、全快された御尊父がUCサンタバーバラ校のジャッカリーノ先生(VinsenntoJakkarino,UCSB量子研究所教授兼所長)を訪問滞在中の安岡先生を訪ねて来られた際に、「おやじを出迎えに行った空港で元気な姿を見て、安堵・感激した」とのお話を伺って、ご一緒させていただいたサンフラワー号による高知出張時の体験が髣髴として蘇り、感慨ひとしおといった感じでした。後日、ジャッカリーノ先生が物性研に來所されたときに、六本木の老舗「おつな寿司」で昼食をご一緒するという稀有な機会がありました。雑談の中でも、磁性体NMRの大御所の風格を感じることができました。
これも後日談になりますが、物性研究所所長を務められた後の退官記念講演会では、限られた時間の20%近くを「NMR-CTの東芝との共同研究」の話題に費やされて、「引き続き、人体用MRIの開発継続を熱望していたが、所長の反対で断念せざるを得なかったのは残念至極でした。」とまで仰せになり、期せずして先生のMRIに関する並々ならない情熱の一端を再確認することになりました。さらに後日談になりますが、今から4年ほど前に安岡先生の傘寿を祝う会があり、マックスプランク研究所(MPI-CPfS)@ドレスデンで現役研究者として研究を継続されているとのスピーチをお聞きし、筋金入りの生涯現役のNMR研究者として老骨(?)に鞭打っておられる姿に感銘一入でした。病み上がりで自重すべきところ、押っ取り刀で駆けつけていた筆者は気分が悪くなり、巨瀬先生にタクシーを手配していただき早々に帰宅というドタバタ劇を演じてしまいましたが、これも今となっては懐かしい思い出です。
Episode4.(井上多門先生の思い出)
ここで、筆者にとっての大恩人の御一人である井上多門さんの思い出に触れないわけにはいきません。当時、井上さんは有限角度投影データからの再構成という研究に取り組んでおられ、赤坂の芙蓉情報センターというところに頻繁に出かけられていましたが、途中で時間つぶしを兼ねてか、頻繁に物性研究所に立ち寄られ、長時間にわたってディスカッションをしてくださいました。NMR―CT以外にも、森羅万象の事柄に対するユニークで鋭いお考えを聞かせていただきました。大変闘争心に溢れ、議論には絶対に負けないという気概が高じて、時には白を黒と言いくるめるようなところ無きにしも非ずといった感もありましたが、頭脳の明晰さと舌鋒の鋭さには舌を巻くことばかりでした。幾度も食事をご馳走になりましたが、大枚の招待講演料を一括プールして関係者全員に還元していただいた赤坂酒家海皇(ハイファン、コロナ禍で閉店)の車エビのおどりは格別だった記憶があります。
NMR-CTの独自開発に対する情熱は天を衝く勢いでした。このあたりの思いは、JIRA会長であった牧野純夫さんとの対談に詳細に記載されておりますので(JIRA会報2003.10&11)、ご参照いただければと思います。意外と思われるかもしれませんが、井上さんは結構ジョークがお好きな方でした。「CTはコロンブスの卵、NMRはNo More RadiationとかNew Money Resorceの省略形」と言われた時に、「NandemoManesuruRokudenasiの略では」などと言って、茶々を入れたのも楽しい思い出です。当初NMR-CTといわれておりましたが、Nは原子爆弾とか放射線をイメージさせるのでよろしくないということで、MRIという呼び方にかわりましたが、Nが抜けるとしっくりせず何となく違和感と言いますか、面はゆさのようなものを感じました。MRは磁気共鳴ですから、ESR、強磁性共鳴等々NMR以外の磁気共鳴一般を意味するということも、物理屋としては違和感を覚える理由の一端だったような気がします。今となれば今昔の感のする話ではあります。
巨瀬さんの結婚披露宴での主賓スピーチでは「巨瀬さんのサジタル像を提示されて、バックボーンがしっかりしている。・・・」なんてお話をされて座分屯1枚とって悦に入っておられたお姿も目に浮かんでまいります。媒酌人は水島公一(東芝エグゼクティブフェロー、東京大学総長特別表彰受賞(2020-2-21)、Liイオン電池の陽極材料の二酸化リチウムコバルトの発見論文の第一著者、共同研究者のJ.B.Goodenoughが2019年ノーベル化学賞受賞)ご夫妻で、後日、基礎研究所でご一緒になり、今もゴルフをご一緒するような親しき関係になろうとは夢想だに致しませんでした。
筑波大学に移られた後も親しくお付き合いいただき、数年に渡り非常勤講師を依頼され、東京への帰路を常磐高速道で同車させていただく機会にも、旧知の研究者との研究会を通じて画像再構成法の激論を交わしているが「愉快爽快、この上ない!」と相変わらずの闘争心に感銘しました。PETの研究で著名な田中栄一先生もメンバーだったと記憶しています。これも後日談になりますが、モーツアルトを聴いてがんと闘病していると鬼気迫る闘争心に、完全復活間違いなしと思いましたが、闘病の甲斐なくご逝去されてしまいました。芝増上寺で盛大な告別式が挙行され、鳩山兄弟はじめ数多の著名人が列席されていました。将に医用画像処理・再構成の巨星墜つ!、68歳という御年での惜しまれるご逝去でした。
Episode5.(巨瀬勝美先生の思い出)
新年早々だったと思いますが、井上さんから巨瀬さんの東芝入社と物性研究所でのNMR-CT研究への参画予定をお聞きしました。1981年の3月だったと思いますが、入社前に見学を兼ねて挨拶に来られました。東大飯田研の秀才そのものの聡明な風貌に、これは凄いのが来てくれたものだと大いに期待したものです。
後の話になりますが、年数の経過とともにMRI学会の重鎮としての貫禄も増し、大学発のベンチャーを立ち上げたりと経営者として風雪に耐えられたせいもあってか、サマセット・モームの「赤毛」ではありませんが、昔の面影は完全喪失しましたが(冗談です!)、謙虚この上なく時に愛嬌のある立ち居振る舞いは昔と変わることがありません。
本文にも触れましたが、巨瀬さんが加わる以前に、基本方針である投影データから画像再構成までの流れは確認できていましたが、スライス方式の確立には実験用のソフト・ハードの整備が不可欠で、デジタル回路が不得意な筆者は最終的な実験的確認に着手できていませんでした。巨瀬さんは大学院時代にマイコンを用いた測定システムを自作した経験が豊富にあり、この辺りはお手の物という感じでした。マイコン制御の装置をハードならびにソフトともに瞬く間に完成させ、一挙に選択励起法によるスライス技術の確立に成功しました。当時はまだスライ勾配の反転による位相フォーカスの必要性については十分には認知されていなかったので、秘中の秘の扱いにするということになり、学会発表でもパルスシーケンスの詳細は触れないことにしました。半年くらいでMRIの画像化に必要な基本的手法を確認でき、事業部と共同で人体用システムの開発を開始する運びとなりました(→本文参照)。
既述のように、巨瀬さんが81年4月からの新人研修(営業実習)が明けたお盆明けから、共同研究プロジェクトに参画し一気に研究チームとしての陣容が整いました。当時は1400Gヘルムホルツ型空芯磁石を使用したシステム(→p.8)に移行しつつありましたが、早速、鈴木宏和さん(グレゴリー聖歌のLPを聴き、カラオケではアグネスチャンの「ひなげしの花」が持ち歌の浪花生まれの気配り達人、後にMRI製造部長)担当のパルスプログラマーの開発を引き継いでいただきました。NECのPC-8001を用いて、早くも12月の初めにはハード・ソフト(機械語プログラム等)を作製し、目標仕様通りのシステムを完成させてしまいました。この際、大問題になったパルス間隔の揺らぎの原因が、DRAMのリフレッシュや画面のメモリの更新のための DMAによる割り込みにあることを突き止め、一挙に問題解決した手際の良さには鳥肌が立つ思いがしました。
横浜国立大学で開催された1982年春の日本物理学会においてプロジェクトを代表して巨瀬さんがNMR-CT(Ⅳ)の標題で成果発表しました。製品にも搭載された実践的な選択励起法により実現したレモンやハムスターなどの鮮明な画像に大きな注目が集まりました。
少々ミクロな話になりましたが、一事が万事で、退職されるまで問題発見能力と解決能力の両方を具備した中核中の中核研究者として、東芝MRIに対して大きな足跡を残していただきました。
井上さんは京浜地区を拠点にした開発を強く主張され、事業部との壮絶なバトルの末、ファントム画像化までは那須工場で行い、大井町の東芝中央病院に場所を移して人体画像化を開始するということで折り合いがつきました。これに伴い、筆者と巨瀬さんの二人は数度にわたる那須への出張ベースで開発に参画することになりました。工場内に俄作りで急造したプレハブ状の建屋が開発の舞台でした。1981年末に那須工場に導入された磁石はブルッカー社製で、日本ブルッカー社所属のハンズームというイエス・キリストそっくりの顔をした技術者が一人寂しく磁場均一性調整に取り組んでいました。冬場の那須は寒く、火炎放射器のような大型ガスストーブで暖を取りながらの作業でしたが、磁石冷却用の水が凍って難渋したという苦い思い出があります。
既に本文で記載しましたが、約半年間にわたる病院勤務の後、再び物性研究所に拠点を移し、鉄心磁石(1T)と空芯磁石(0.15T)を用いた二種類のNMR-CTシステムを用いて、応用研究に取り組むことにしました。巨瀬さんはデータ収集処理系を含むデジタル系全般、筆者はNMR送受信系・プローブ等のアナログ系を分担しました。データ収集・再構成は多次元フーリエ法に変更し、オンラインで再構成・表示まで可能な小型MRIの実験装置の完成です。ここでも巨瀬さんの高度なシステム構築能力と問題解決能力が遺憾なく発揮されたことは言うまでもありません。開発システムを用いた面白い研究テーマのアイデアは無限にあるような状況で、まずは、筆者は化学シフトイメージングの研究に、巨瀬さんはフローイメージングの研究に取り組むことになりました。しかしながら4年間にわたった物性研時代にも区切りをつけざるを得ないような状況になり、次のテーマに取り掛かることなく川崎の総合研究所に研究拠点を移すことになりました。
総合研究所時代の1984年11月26日~29日、鳴子ビューホテルで開催された第23回NMR討論会では、巨瀬さんは「NMR映像法による流れのイメージング」のタイトルで、筆者は「スピンエコー・フーリエ法によるケミカルシフトイメージングの基礎的検討」のタイトルで口頭発表し、最終的には以下のような論文として総括することができました。
巨瀬勝美:
Kose,K., Satoh,K., Inouye,T., Yasuoka,H. :NMR flow imaging. J.Phys.Soc.Jpn.54:81-92(1985)
佐藤幸三:
Satoh,K., Kose,K., Inouye,T., Yasuoka,H. :Chemical shift imaging by spin-echo modified Fourier method. J.Applied Physics Vol.57 15 March 1985 Number 6
(本論文は、1992-3-13に出願した「水化学シフトによる温度マッピング」の基本特許JP3160351B2(石原康利、佐藤幸三)の技術的基盤になり、2014年に石原康利さんが受賞したMagnetic Resonance in Medicine誌の創刊30年を記念した「The top 30 MRM papers」に選出された論文“A Precise and Fast Temperature Mapping Using Water Proton Chemical Shift, Magnetic Resonance in Medicine, Vol.34, Issue6, 1995)”に承継されました。(→ 黒田輝先生(現、東海大学教授)を中心とする大阪市立大学・堤四郎研究室との体内非侵襲温度計測に関する共同研究については本文3.1参照))
当時の“MRI VS. TMRバトル”に関係して、鳴子ビューホテルでのエピソードを以下に紹介したいと思います。
NMR討論会の懇親会が終了し、部屋に引き上げて巨瀬さんと雑談をしていると、いきなり亘弘先生(岡崎国立共同研究機構・生理学研究所教授)を始めとする5名ほどの珍客が、缶ビールとつまみを片手に寝間着姿で闖入して来られました。先生は当時、TMR(Topical Magnetic Resonance)という手法で生体系における31Pのスペクトル計測に関する研究を精力的に続けておられましたが、NMR討論会は新参者の筆者らの先だっての講演で、「TMRには一切言及しないどころか、MRIが唯一無二だ!」との印象を与えるような発表をしたのが、亘先生の逆鱗に触れ、怒り心頭に発するといったご様子でした。最初、布団の上に車座になって取り囲まれての厳しい追及があり、しばらくは険悪な雰囲気でしたが、徐々に誤解も解けて、最後は満面の笑顔で退室されたのは何よりでした。古き良き時代のNMR討論会ならではの貴重な体験をさせて頂きました。当時は、X線CT同様の形態情報中心のMRIではなく、in vivo代謝情報が得られるTMRの医学的価値を高く評価する研究者も多く、「MRI VS. TMRバトルの時代(?)」の最終段階に入っていたように思われます。今となっては隔世の感のある、俄かには信じられないような魔訶不思議な話ではありますが・・・。
少し時間が飛びますが、1985年の夏ごろに筑波大学・井上多門教授から自宅に電話が掛かってきました。「巨瀬さんを講師として筑波大学に招聘したい」とのことでしたが、寝耳に水とはこのことで「絶対に受け入れられない。何としても断念してください!」と哀願調でご返事しました。その後、巨瀬さんを交えて3人で話し合いの機会をもつなどして、日露間の北方領土交渉のような状態が継続していました。
秋になって、第24回NMR討論会が工業技術院筑波研究センター共用講堂で1985年11月6日(水)、7日(木)、8日(金)に開催され、11月7日AMに巨瀬さんが「NMR映像法による乱流のイメージング(Ⅱ)」(巨瀬、佐藤、岡本、伊藤)を発表しました。その時に撮った記念のツーショット写真を提示します。11時~12時に電総研の近藤淳先生の特別講演「磁性合金の話」を聴講し、夜の懇親会に参加しました。巨瀬さんは、発表を終えたのち帰宅されたと記憶しています。最終日11月8日の13:00~14:40に荒田先生座長による甲斐荘先生の最終演題の発表直前に、“東芝総合研究所の佐藤幸三先生、会社に至急連絡されたし”との掲示が出ました。伊藤さんに電話を入れると、「急用が生じたので、夕方、横浜の某飲み屋で会いたい」とのことでした。
約束の場所で6時ごろに落ち合いましたが、顔面が蒼白気味で意気消沈されている様子でした。一瞬、嫌な予感がしましたが、案の定「巨瀬さんから12月末をもって東芝を退職したい旨の申し出があった」とのことでした。これまでの経緯を説明し、事前に報告していなかったことを陳謝しました。当時のMRIの研究テーマは若い岡本和也さんのみで、巨瀬さんが抜ける打撃はあまりに大きく、喪失感に打ちのめされながら、お通夜のような陰々滅滅とした雰囲気で善後策について打ち合わせました。
翌週の月曜日の朝一に関係者のみに事情を説明して、早速、菊池尚志さんに引継ぎを担当していただくこととしました。諺「立つ鳥は後を濁さず」の通り、実験指導・訓練に加えて懇切丁寧な技術文書などにより、12月末の最後の最後まで誠実かつ完璧な引継ぎ作業をしていただきました。技術文書は超高速MRI研究のバイブルとして活用され、菊池さんからバトンタッチされた久原さんへと技術継承されました(Episode14.参照)。
MRIの研究にとってはコア中のコアである巨瀬さんが外れる損失は壊滅的なものでしたが、巨瀬先生のMRIに対する世界的レベルでの貢献を考えれば、かくなる運命だったと得心している次第です。1986年1月から筑波大学講師として転出された後も、巨瀬先生の東芝MRIに対する絆と愛情は一貫して変わらず、陰に陽に多大なるご支援を頂いとことにただただ感謝するばかりです。菊池寛の小説「恩讐の彼方」のような心境とでも申せましょうか・・・。
筆者が大学3年次の物理学科学生の時に受けた飯田修一教授による電磁気学の講義では、UCバークレーの物理学コースの「電磁気」が教科書に指定されました。尤も、講義で教科書が使用された形跡はなく、実際に教科書を購入した学生も皆無だったと思います。日本語の翻訳版は長らく絶版になっていましたが、復刻版2が出たという話を耳にして、散歩がてら大学の近くにある池袋のジュンク堂に出かけたら、運よく棚に昔の電話帳のように異様に分厚い(全627ページ)「電磁気」があるのがすぐ目に留まりました。早速、中身をパラパラと捲ってみると、「全ての演習問題は巨瀬勝美君が解いてくれたので、日本語版には模範解答を掲載することができました」といった趣旨の監訳者の飯田修一先生のお言葉がありました。周知のように電磁気学はMRIにとって必須の学問ですが、巨瀬先生は学生時代に「電磁気学の達人」の域に達し、飯田修一先生から免許皆伝を許されていたことがわかりました。
Episode6.(榎本義雄先生の思い出)
榎本さんとは、東芝中央病院@大井町、東芝那須工場などで、MRIの研究開発をご一緒させていただきました。筆者は理学部物理の出身で、医学分野は全くのど素人ということもあり、医学博士の榎本さんにはMRIの臨床応用に関して様々ご教示頂いたこと、今もって感謝いたしております。榎本さんとは貴重なディスカッションも多々させていただきましたが、たまに眼鏡越しに見せる鋭い視線と人懐っこい笑顔がたまらない魅力でした。那須工場の医療機器技術研究所の窓際から、榎本さんのボソボソした話し声が聞こえてくるような錯覚が致します。
筆者らが物性研に引き上げた後、大井町の東芝中央病院では、鈴木宏和さんや工学と医学の両博士号を有する榎本(鈴鹿医療大学教授に転出)さんが中心なって超電導MRIの治験データの収集に取り組みましたが。この際、自らが被写体になって収集したデータを再構成した画像をご自身で確認したところ、脳に病変があることわかったという予期せぬ出来事がありました。幸いに早期発見のため完治されて、職場復帰の後に、鈴鹿医療大学に転出され教鞭を執られておりましたが、不幸にして早逝されたのは残念至極なことでした。
超高速MRIに関するニーズ調査を主目的に、国立循環器病研究センターの研究所長をされておられた仁村泰治先生(紫綬褒章受章、超音波診断装置のパイオニア)を二人で訪問させていただきました。持参したお土産の饅頭を頂きながら、予定を大幅にオーバーして長時間にわたって交わされた、立場を超えた真摯この上ない質疑応答の場面が思い出されます。後日、筆者の遠慮会釈に欠ける不躾な振る舞いにハラハラし通しであった旨、お目付け役として同行した営業担当から研究所の上層部にクレームが来て、何かと物議を醸したことも今となっては懐かしい思い出となりました。
Episode7.(逢坂昭先生(国立予防衛生研究所部長)の思い出)
修士課程でオートダイン方式のNMR測定装置を作製し、感度評価に硫酸銅をドープした水のNMRを測定しました。この時から水の物性に興味を持ち、神田の本屋でたまたま目にした北海道大学教授上平恒先生の名著「水とはなにか」(講談社1977)を購入して、読む機会がありました。
後日、新装版が2009・7に講談社ブルーバックスの一冊として発行されましたが、何度も繰り返し熟読した数少ない本の一つになっています。上平恒と共著で「生体系の水」(1989年5月,講談社サイエンティフィック)を出され、こちらも随分と勉強させていただきました。
博士論文では不均一系のNMR緩和過程の理論的モデルを構築する必要がありましたが、参考文献の多くに生体中のNMR緩和の研究に関する論文が含まれていました。このような経緯から、対象は全く異なるものの緩和のモデルはほぼ完全に一致することになりました。このことがMRIの研究において大いに役立つことになろうとは当時は夢想だにできませんでした。
NMR-CTの研究を始めて暫く経過して、生体中のNMRについて徹底的に調査する必要があると痛感しました。上平先生の本に、逢坂先生のお名前が記載されていましたので、先生とは全く面識はなかったのですが、水のNMRについて教えを請いたい旨お電話を差し上げたところ快諾され、対応していただけることになりました。生体中のNMRについて当時知りうる限りの有益な知見をご教示頂きました。余話ではありますが、生体系の水の研究で有名なHazlewoodとはお知り合いとのことで、ヘビー級のボクサーから研究者に転身したような話を伺いました。生体のNMR関連論文と本をお貸しいただいて熟読させていただきましたが、緩和時間の変化はダマディアンの値とはとは大きく乖離しており、唖然とした思いを禁じえませんでした。
お借りした原書を、お住まいになっておられた本郷台の公務員宿舎まで返却に行きましたが、同じ宿舎に安岡先生もお住まいになっておられることがわかりました。逢坂先生は英語にもご造詣が深く、後日、先生の著書「科学者のための英文手紙文例集(1981年)、メイル(1985年)(講談社)のお世話になりました。
最近、はやぶさ2が地球近傍小惑星リュウグウから持ち帰った試料の分析により、「地球上の水(+有機物)の起源が太陽系誕生時の小惑星由来では?」という従来からある仮説がいよいよ実証されそうだというニュースが流れました。壮大なロマンを感じつつ、MRIと不即不離な水に対する興味が一段と高まるような高揚感に浸っています。
Episode8.(「次世代MRI」の研究企画)
1984年8月末に井上多門さんが筑波大学教授に転出され、巨瀬さんと筆者は翌9月1日付けで電子機器研究所・MEグループに異動になりました。グループ長の伊藤阿耶雄さんの強力なリーダシップで、引き続きMRIの研究に注力することになり、内径30cmの4.7T超電導磁石を用いた動物用MRI装置の開発を柱とする「次世代MRI」という名称の本格的な研究計画を策定することになりました。
企画書などどう書いてみたらいいものやらと途方に暮れておりましたが、伊藤春彦(東芝研究開発センター技監など歴任)さんという企画グループ所属の文字通りの企画のプロが支援してくれることになりました。最初にお目にかかると、言葉になんとなく懐かしい響きがあり、ひょっとしてはと思い出身地などを確認させていただいたところ、何と高校の3年後輩であることが判明しました。お陰様で企画書も短時間で完成し、プレゼン資料も出来上がり、発表会も無事終了し安堵しておりましたところ、研究所のトップから「研究テーマは既に承認しているので企画書など不要! 直ちに、実行計画書を策定するように!」とのお達しがありました。一同、「なんのことや!」と愕然としましたが、直ちに実行計画書を策定し、研究をスタートすることになったものの、問題は先立つもの、即ち研究リソースの確保ということになりました。磁石の開発費は事業部から出していただくことになり、陣容も整いましたが、漏洩磁場の影響で実験室の設置場所の確保には難渋しました。中核メンバーの巨瀬さんが筑波大学にスカウトされるという、さらなる難題が出来してしまいました(→Episode5.)。
巨瀬さんの退職に伴い、企画書(1985年6・14)では佐藤、巨瀬、岡本の3名が連名になりましたが、 実行計画書(85年11・20)では巨瀬さんの名前が消えて、岡本、佐藤、伊藤の3名に加えて、超電導磁石の開発担当として佐藤明男、前田秀明(後に理化学研究所ライフサイエンス技術基盤研究センターNMR施設長)、高野一郎の計6名の連名になりました。
当初予定は、1987年3/E完成予定でしたが、磁石の開発に手間取り、1年以上も遅延することになったのは残念としか言いようがありません。
Episode9.(4.7T超電導磁石の開発)
グループ長の伊藤さんのご尽力のお陰で、出張経費の事業部持ちを条件にロンドンで開催されました第4回SMRM(1985年8月19日~23日)への入社後初めての海外出張がOKになりました。往時は大らかなもので2週間近い出張期間で、前半が学会参加、後半にオクスフォード・インスツルメントを訪問することになりました。土日が二回もあったので、この間に大英博物館を始めロンドンの名所旧跡を多数訪問することができました。オクスフォード・インスツルメントではVIP待遇で、技術者を交えたランチタイムとディナータイム(こちらは夫人同伴)を設定していただき、得難い体験をすることができました。宿泊ホテルは有名なランドルフホテルで、ゴージャスな一時を過ごすことができました。予期に反して、4.7T動物実験用超電導磁石は東芝社内で内部開発することになり、オクスフォード・インスツルメントには頗る歓待していただいた分、聊か後ろめたい思いを禁じえませんでした。
当時、浮島地区にあった総合研究所のエネルギー機器研究所・超伝導グループで堀上徹さん(後に機械・エネルギー研究所所長、SRL-ISTEC所長特別補佐など歴任)をリーダーに、コイルが前田秀明さん(後に理化学研究所ライフサイエンス技術基盤研究センターNMR施設長)、浦田昌身さん、クライオスタット冷却系が佐藤明男さん(後に物質・材料研究機構 材料研究基盤研究センター 強磁場研究グループ サブグループリーダー)、和田司さん,矢澤孝さんの担当で開発することになりました。
試行錯誤の末、艱難辛苦を乗り越えて、当初予定からはかなり遅れたものの仕様どおりの素晴らしい超伝導磁石が完成し、MRIシステムの画像出しがスタートしました。しかしながら、設置場所は劣悪で、多種多様な電気炉を始めとする大容量電源のスイッチングノイズに加えて、多摩川の氾濫の痕跡も残る軟弱地盤上に立地した地震の時にも問題となる建屋自身の低周期固有振動に起因する磁場揺らぎ対策には散々苦労することになりました。共同研究先の東海大学医学部脳神経外科・佐藤研究室から持ち込まれた猫の画像も、S/Nや分解能は良好ながら、NMR信号の位相揺らぎのためにアーチファクトが入り、諸々の涙ぐましい努力にもかかわらず完璧な画像が得られなかったのは残念至極でした。
実験中に猫が脳死に陥ると、画像が急激に変化するという現象が見られました。機能的MRIのコントラスト要因(ヘモグロビン酸素飽和度)などに関係する現象ですが、装置の完成度を高めることに集中せざるを得ず、真剣に検討することもなく見過ごしてしまったのは未だに悔いが残っています(→Episode10.)。
数度のクエンチングなどのドタバタ劇を演じたものの、なんとか超高磁場MRI/MRSの研究基盤を整備することができました。
Episode10.(第18回日本磁気共鳴医学会(1991年秋季大会)熊本(高橋大会長)などの思い出)
1991年には猫頭部のT2*強調猫頭部画像を取得し、微細な頭部血管を描出することができました。成果は、第18回日本磁気共鳴医学会(1991年秋季大会)@熊本(高橋大会長)で守清己さんが発表し、当日の夕食を兼ねて熊本名物の馬刺しでご苦労さん会を開催しました。学会開催前の台風17号(9/14長崎上陸)に続き、熊本に大災害をもたらした台風19号(1991年9月27日、佐世保上陸)の直撃に会い、帰りの飛行機が欠航になってしまい、同じホテルに泊まっていた巨瀬さんと雑談を交わした記憶があります。翌日、台風一過の水前寺公園を散策すると、大木が何本も倒れていて、台風の威力のすさまじさを実感しました。
Episode9.に既に記載しましたが、熊本で発表しました猫頭部画像に関係して、少しばかり敷衍させていただきます。巨瀬さんと同じ東大飯田研究室出身の飯塚哲太郎先生(当時、慶応大学助教授?)のお仕事を、NMRの生化学への応用(1978年東京化学同人)で拝見しておりました。先生は、ヘム蛋白質のESRスペクトルの研究を行い、高スピン状態と低スピン状態間の熱平衡などの議論を展開されていました。
このような知識がありましたので、写真に示したような劇的な画像の変化から、虚血による脱酸素化による酸化ヘモグロビン(非磁性)から還元ヘモグロビン(常磁性)に変わることが原因だということは直ちに気が付きましたが、当時は周辺には初心者のみしかおらず、思考停止状態に陥ってしまいました。当時、電子技術総合研究所の亀井裕猛先生が差分コイル法による脳機能イメージングの発表もされておりましたので、傍に巨瀬さんが居られたら、現象の本質に迫るような深い議論ができたのではないかと未だに悔やまれてなりません。後日、米国ベル研究所の小川誠二博士が1990年に機能的MRIの原理を発見されて、PRONASに論文が投稿されていたことを知り、ユニークな発想に感嘆しつつ少々悔しい思いが致しました。
動物実験と関連しますが、年に一度の恒例行事として、MEグループの動物実験関係者全員で川崎大師に参拝し、護摩祈祷による実験動物の慰霊に努めましたが、夜の部で直会(なおらい)と称した飲み会とカラオケ二次会も懐かしい思い出です。「MEGはMusic Entertainer Groupの略だ!」と揶揄されるほど、若干一名を除いて皆さん歌が大変お上手でした。
Episode11.(ちょっぴり苦い「思い出のサンフランシスコ」)
東芝はダイアソニックスのMRI部門を買収し、カウフマンが指揮するUCSF-RILも東芝のMRIの研究開発の一翼を担うことになりました。こうなると研究テーマと研究費の調整が必要になり、川崎とサンフランシスコの研究内容の棚卸の場が設けられ、急遽米国出張という運びになりました。
ホテルにチェックインするやいなや、海外出張慣れされた事業部の同行者一同は午前中に時差ボケ解消のためにゴルフに出かけましたが、当時はゴルフ未経験の筆者は空港に隣接するウエスチンホテルで一人寂しく留守番をさせられることになりました。睡魔に襲われベッドで熟睡していると、ゴルフで時差ボケを解消しスッキリした連中からお呼びがかかり、冷たいスコッチの水割りを飲まされる羽目になりまた。昼夜が逆転するという完全時差ボケに加えて、お腹が冷えたこともあって、一睡もできないまま持参した本を完読し、夜明けのジェット機の離発着音を聞くことになってしまいました。
当日のステアリング委員会でのプレゼンとQ&Aを事前に確認をする暇もなく引っ張り出されて、シドロモドロになりながら三日間にわたる長丁場の会議を終えることになりました。苦い思い出のサンフランシスコになりましたが、人民裁判モドキ(多少オーバーですが)の吊るし上げに堪えたご褒美でしょうか、依頼研究は多少減額されたものの継続ということで、なんとか無事帰国することができました。
カラオケで「思い出のサンフランシスコ」を聴くたびに、往時の情景が脳裏に湧き上がって参ったものです。後日談になりますが、その後はゴルフに打ち込み、現在も月一ゴルフを継続しております。これも後日談になりますが、大枚を叩いて獲得したTAMIは清算するはめになり、M&Aの恐ろしさを痛感した次第です。
Episode12.(平野修助先生の思い出)
13C-MRSの研究に関しても数奇な出会いがありました。初めて平野先生(後に東邦大学学長(91/7-1~94/6-30))とお目にかかったのは、五老さん(後にMR事業部長)の随行で、東邦大学の東邦大学医療センター大橋病院(東急田園都市線・池尻大橋)の先生の居室を訪問した時でした。8月の猛暑の中、「ネクタイ外して、ざっくばらんに無礼講で参りましょう」などと聊かべらんめえ調にお話をされて、1時間ほどの歓談の後(13C―MRSの話もあったようですが・・・)、暇乞いを致しました。
しばらくして、先生から「産業創造研究所主催の委員会の委員に就任していただけないか」との丁重なお手紙を頂戴しました。聊か躊躇しましたが、塚田裕三先生(元日本学術会議会長、紫綬褒章受章、1993年勲二等旭日重光章受章、92歳でご逝去(2015年5月14日))が委員長をされている委員会に参加することになり、10回近くの委員会が開催されましたが、門外漢の筆者にとっては到底理解できそうにない高尚な神経生理学などの講演を拝聴するということになりました。塚田先生の鮮やかな議事進行と総括の手腕には感嘆を禁じ得ないものがありました。
後日、平野先生からお手紙を頂戴し、「13C―MRSのプロジェクトについて相談したいので、新橋第1ホテルのロビーまでお越しください」ということになりました。最初の数回は雑談に毛が生えたようで気楽な話に終始しましたが、3回目くらいになって「塚田先生の遠大な計画」をご説明になり、協力を強く要請されることになりました。当時の東芝のMRI事業は極めて厳しい状況であり、とてもこのような研究に参画する余地はないことは確かですが、いまさら後には引けないという外堀と内堀を同時に埋められたような状況になり、清水の舞台から飛び降りるような心境の下、13C-MRSの共同研究を実施する決断をいたしました。
しかしながら、確たる実行計画案も思い浮かばず途方に暮れる中、塚田先生のご尽力により創価大学に東芝製の2T-MRIシステムを購入いただき、これを研究基盤としてNEDOの国家プロジェクトとして推進していくことになりました。
ここに至る道筋は困難を極め、平野先生とは度重なる情報交換と戦略会議と称して、新橋第一ホテルロビーでの待ち合わせから某所での夕食、銀座界隈での二次会とのお決まりコースを実施することになりました。往年の銀座の花売り娘も70歳越えの老婆に変身していたのを目の当たりにして、1991年3月から始まったバブル崩壊の影響もあったせいか、一抹の儚さをしみじみ感じました。筆者にとっては異次元の世界を垣間見ることになり、まるで二人梁山泊のような濃密な時間を過ごすことができました。
平野修助先生は13CO2呼気測定などでも重要な研究成果を挙げられた神経化学・神経薬理学の大家で、2003年春の叙勲において勲三等瑞宝章を受賞されました。新橋第一ホテルで開催された叙勲祝賀会の記念写真を掲載させていただきます。2012/3-23に85歳の天寿を全うされご逝去されました。
後日、近くの本屋さんで、松原英多著「あなたは5秒で熟睡できる」KKロングセラーズという本のまえがきに、「平野修助元東邦大学学長に本書を捧げることをお許しいただきたい。」という一文を目にして、先生の人望の高さを再確認するとともに在りし日のダンディーな姿と美声が思い出されました。
Episode13.(超高速MRIのジプシー的生活の思い出)
小動物対象のMRS担当部隊は、スペース的に研究所内に設置可能なため、じっくり腰を据えて研究に取り組むことができましたが、人体用システムが必要な超高速MRIの研究開発は、磁石探しから始まって社内の工場に設置場所を求めてジプシー生活を余儀なくされ、担当者一同は艱難辛苦を経験する羽目になりました。
鶴見線の海芝浦にある京浜事業所での研究も、想定外の事態の連続で、徹夜実験の末に、許可されたスケジュール最終日の翌日の明け方にレンコンの画像化に成功することができました。
後日談になりますが、この後も大井町の東芝中央病院での苦難に満ちた開発の後、製品化機動部隊として那須工場駐在中、深夜の1時過ぎに帰宅中の久原さんが交通事故に遭遇し、相手の新車同然のベンツが破損して、相手がその筋の方だったこともあって、修羅場を経験する羽目になりました。通勤途上災害ということで、研究開発センターの安全衛生委員会で事故内容を報告させられたことで、社内でも知れ渡ることになり肩身の狭い思いをしました。
Episode14.(久原重英先生(杏林大学教授)の受賞)
久原さんの1987年9/30出願した「超高速MRIに関するプリスキャン特許(特願62-244357)がH19年全国発明表彰特別賞(朝日新聞社賞)を受賞しました。盛大に挙行された授賞式の記念写真が残っています。久原さんのMRIに関する3番目の特許です。引き続き、2007年 文部科学大臣功労者表彰、同じく2007年に「EPI基本画像化技術の開発と本技術搭載MRIの実用化」により第40回市村産業賞・貢献賞(久原、金山、佐藤)を受賞しました。
実は巨瀬さんのEpisode5.で述べましたように、プリスキャンを用いた超高速MRIの基本技術は1985年12月には巨瀬さんにより完成し、報告書とともに菊池さんに引き継がれました。菊池さんから久原さんに継承されたわけですが、久原さんはプリスキャンの特許としての重要性に着目し、1987年9/30出願の出願に漕ぎつけました。
当時、カーマーカー特許が1984年に日本にも出願され、ソフトウエアの特許性に関して侃々諤々の議論があり、鈴江特許事務所の担当者から、「アルゴリズムとかソフトウエアそれ自体は特許にはならない。ハードウエア化などの仕掛けが不可欠」との説明を受けたおりました。筆者も、同じく1987年9/30にプリスキャンを公知例にしてハードウエア化による実時間MRIの特許を出願しました(特願62-244355)。後日、IPCCに1年間出向し、特許検索による公知例調査の実務を経験するという機会があり、「アルゴリズムとかソフトウエアそれ自体は特許にはならない」というのは時代遅れの間違った認識であることを再確認した次第です。幸いにして久原さん提案のプリスキャン特許が承認されて事なきを得ましたが、薄氷を踏むような思いが致しました。久原さんと巨瀬さんの連名特許にしておくべきだったと後悔しましたが、覆水盆に返らず、時すでに遅しでした。巨瀬さんには改めて深謝するとともに、久原さんの慧眼に敬意を表したいと思います。
久原さんと共同執筆させていただいた「NMR医学 基礎と臨床 改訂2版の第7章 MRIフロー計測(pp.181-210)(日本磁気共鳴医学会編、丸善株式会社)も記憶に残る思い出となっています。MEグループでは恒例のスキー合宿がありましたが、志賀高原や八方尾根スキー場などへ繰り出しました。ゲレンデが猛吹雪の為に筆者は遭難まがいの状況になり、久原・岡本・近藤の3名により救出されるという苦い事件も今となっては懐かしい思い出になっています。
Episode15.(瀬尾育弐先生(2005年紫綬褒章受章、駒澤大学名誉教授、
日本心霊科学協会理事長)の思い出)
超高速MRI(EPI)は磁場の不均一性に弱い(画像が歪み、ぼける)という弱点がありますが、正常ボランティアとして撮影した瀬尾さん(医用機器技術研究所の超高速MRI開発リーダー)の画像は、局所的ではありますが、顕著なアーチファクトがありました。暫く原因不明でしたが、古い記憶を辿っていただいた結果、幼少のみぎりの喧嘩傷と言いますか、頭蓋骨に食い込んだ鎌の鉄片が原因だということが判明しました。その後、摘出していないようなので、記念の品として今もって瀬尾さんの頭蓋骨に鎮座しているようです。文字通り筋金入りの研究者として、駒澤大学に移られてからも超音波とMRIの二刀流でご活躍されました。
UCSF-RILのクルックス先生(Lawrence E. Crooks)が那須工場を訪問された時、若干の面識がありました筆者にお呼びが掛かり、瀬尾さんの運転で早朝から深夜まで丸一日がかりの山形・福島・栃木県を縦断する広域ドライブ旅行をエンジョイしました。クルックス先生はUCBの物理学科を首席で卒業された大秀才で、「MRIが恋人で独身」と言った噂が実しやかに囁かれるほど、当時はMRIの研究一途に専念されていました。大雄弁家のカウフマン(Leon Kaufman)とは対照的に至ってシャイで寡黙な方でしたが、MRIが取り持つ縁とでも申しましょうか、たちまち意気投合して筆者らの的外れな愚問に対しても誠実極まりない懇切丁寧な回答を頂きました。日本蕎麦が大の苦手とのことで、「黒ずんだスープが気味が悪い」のが理由のようでした。
後日談になりますが、筆者が那須工場に単身赴任した際には、自動車の運転免許を持たなかった筆者は、温泉、ゴルフ、食事、観光とほぼ毎日といっていいくらいに瀬尾さん運転の車に同乗させていただき、楽しい思いを満喫することができました。お陰様で天国のような単身赴任生活になりました。今もって、足を向けては寝れない、大恩人中の大恩人であります。
Episode16.(上野照剛先生(元九州大学、東京大学教授)の思い出)
超高速MRIでは上野照剛先生とも九州大学時代から東大時代にわたり、勾配磁場のスイッチング時の磁気刺激の問題などでご指導いただきました。東芝でも複数名の論文博士のご指導でもお世話になりましたが、中でも久原さん(杏林大学教授)は業務繁多のためもあってか博士論文の完成が遅れに遅れて、東大退官の後に九州大学に移られた後でようやく取得することができました。
東京大学の研究室を訪問頂いた際に入口さんの博士論文(13CのMRSに関するお仕事)を拝見する機会がありましたが、先生のお人柄の一端を再確認する機会になりました。
退官記念講演会の夕方に挙行されました上野精養軒での盛大なパーティーの思い出も忘れられないものです。後日、上野先生は久留米にある帝京大学に着任され、当時、帝京平成大学に在籍していた筆者はご縁の深さを感じた次第です。たまたま皇居前広場で先生と出くわし、写真を撮影していただいたのも確率的にあり得ないことで、摩訶不思議といいますか、ご縁の深さの一端を示すものだと思います。
Appendix
Appendix1.(当時の基本方針と最優先研究課題)
Appendix2.(固体物理の応用「NMRイメージング」(1983.Vol.18 No.2)から抜粋)
Appendix3.(パリティ 2003年12月号(丸善)掲載「MRIのノーベル賞」の解説記事から抜粋)
Appendix4.(日本磁気共鳴医学会編「NMR医学-基礎と臨床」(丸善)、
医用画像診断装置(コロナ社)分担執筆から抜粋)
Appendix1.(当時の基本方針と最優先研究課題)
この時点での研究開発の基本方針ならびに研究開発課題(懸案事項)は以下のようなものでした。
以下、課題(懸案事項)1.~4.について当時の状況を説明させていただきます。
1.については、当時、Mansfieldらによる選択励起法/選択飽和法やHinshawの交番傾斜磁場法などいくつかの方法が提案されていました。選択励起法が最適であると考え、早速机上検討にかかりましたが、選択励起法の特許や論文の記載は不完全で、実験的な確認が必要との判断になりました。間もなく、勾配磁場の反転操作による位相リフォーカスが不可欠なことが判明しましたが、相手が大御所のMansfieldだということもあり、聊か自信の持てないといった状況でした。
このような時、磁気共鳴の世界的な主要雑誌であるJ Magn Reason(物性研図書館が定期購読しており、大学院時代からの愛読雑誌)をパラパラ捲っていると、実にタイムリーなことにHoultによる選択励起に関する論文が目に留まりました(“Hoult DI.: The Solution of the Bloch Equations in the Presence of a Varying B1 Field – An Approach to Selective Pulse Analysis. J Magn Reason 1979; 35: 69-86”)。早速、引用文献を確認したところ、最初に、「マンスフィールドの選択励起法は不確定性原理に反しており、信号が得られないので手法として間違っている」というHoultの批判論文(“Hoult DI. Zeugmatography: A Criticism of the Concept of a Selective Pulse in the Presence of a Field Gradient. J Magn Reason 1977; 26: 165-167”)が出て、これに対してMansfieldによる「不確定性原理に反してなどいない。Houltの批判は関係者に混乱を引き起こしたので、Bloch方程式の厳密解に基づく解析結果を提示し、批判に応えたい」という屁理屈としか思えないような反論論文(“Mansfield P. et al: Selective Pulses in NMR Imaging: A Reply to Criticism. J Magn Reason 1979; 33: 261-274”)が出ており、1977年以来の長期間にわたる批判合戦があることがわかりました。これらの論文誌上のやりとりから判断して、「Mansfieldによる当初提案の内容では“位相フォーカスのためのスライス勾配磁場の反転操作”が欠落している」ということを再確認することができました。
両者の論文誌上での論争については以下のような後日談があります。1982年にAcademic Pressから出版されましたP.Mansfield とP.G.Morrisによる「NMR Imaging in Biomedicine」(Supplement 2 Advances in Magnetic Resonance)の3.3.5 Focused Selective Excitationに、Houltによって指摘された通りの説明があり、J Magn Reason誌上における紳士的かつ辛辣極まりない論争に決着がついていたことが分かりました。「自ら提唱したラインスキャン法に対しては“反転操作無し選択励起法”が優れている」などと頑固一徹な主張を繰り返しており、この期に及んでもHoultの批判を受け入れたわけではないようですが、 P.Mansfieldの敗北宣言!?であることは否定しがたいと思います。ジョンブル魂躍如と言ったところでしょうか! プラグマティックな米国人なら全く異なる展開になっていたと思います。(今回、関連文献の送付を快諾頂きました巨瀬勝美先生に感謝申し上げます)
選択励起パルス以外にも、HoultのMRIに対する貢献は絶大なものがあり、就中、NMR信号のプローブSNRに関する基本論文(Hoult DI. et al: The Signal to Noise Ratio of the Nucler Magnetic Resonance. J Magn Reason 1976; 24: 71-85)は秀逸であり、筆者にとって文字通り研究の羅針盤と言いますか道標になりました。
P.Mansfieldは「200G程度以下の磁場強度でないと表皮効果により人体には高周波磁場が入っていかないので、MRIは不可能である」と言った間違った主張も随所でしていました。自ら考案したEPIにおいても、画像を二次元FTではなく1次元FTで求めることに固執して(周波数エンコードのみで位相エンコード概念が欠落、k空間軌道も想起せず)、難解極まる論文を発表しているなど、弘法も筆の誤りといった感じでしょうか(Nobel賞受賞者に対して失礼極まりないことではありますが!→Appendix3.参照)。ただし、Houltも「人体用としては10MHzが限界」などと主張していましたので、当時としてはいた仕方がなかったようにも思えます。
2.については、頭部用および胸腹部用の大口径コイルを銅パイプを用いて試作し、Qメータで当たりをつけるという簡便な実験を行いました。10MHz位までは何とかなるかという感触でしたが、P.Mansfieldによる「200G程度以下の磁場強度出ないと表皮効果により人体には高周波磁場が入っていかないので、MRIは不可能である」と言った主張の文献を読んでいたこともあり、ずっと懸念事項のままでした。後日、超高速MRIで1.5Tで頭部画像を撮影できた時点で、意外と高い周波数まで高周波磁場が人体に侵入することが体感できました。後日談になりますが、P.Mansfieldが浜松町の東芝本社ビルを訪問された機会に、当時のお考えを確認できなかったことが悔やまれます。
MRIのプローブには電磁工学的にも生体高周波物性や安全性の観点からも高い関心を持ち続け、1991年5月1付で朝倉書店から出版された「センサーの事典」の3.3 核磁気共鳴プローブの項目を分担執筆いたしました。
3.については、以下のような経緯で懸念事項ではなくなりました。1982・7、第1回医用画像工学シンポジウムの特別講演において、 UCSF-RILのLeon Kaufman所長の召請講演を拝聴する機会がありました。ダイアソニックス社製0.35T超電導MRIによる鮮明なマルチスライス頭部臨床画像が次から次へと提示されました。画像の空間分解能はX線CTに比べて若干落ちるものの核医学画像に比べて圧倒的に高精細で、コントラストはX線CTをはるかに凌駕するという極めて衝撃的なもので、筆者が「MRIはものになる!」と確信した瞬間でした。これにより、3.に関しては懸念が一挙に雲散霧消しました。後日、東芝がダイアソニックスのMRIデビジョンを買収し(1985、東芝 はUCSF-RILとMRIの共同研究開始)、KaufmanやLawrence E. Crooksと交流する機会が来るとは夢想だにしませんでした。
4.については、MRIの画質(SNR,空間分解能、コントラスト)が当初の想像以上に高く、緩和時間の変化がDamadianの主張(がん化に伴う2~3倍の延長)程ではなかったとしても、10%そこそこの数値であれば診断価値の高い臨床画像が得られるので、クリティカルな意味を持たないことが判明しました。
Appendix2.(固体物理の応用「NMRイメージング」(1983.Vol.18 No.2)から抜粋)
当時愛読しておりました固体物理という月刊誌に朝比奈清敬さん(後のMR事業部長)が執筆された「CTスキャナーの原理と最近の進歩」に触発されて、1983年2月号に固体物理の応用「NMRイメージング」(1983.Vol.18 No.2)と題した解説記事を執筆することができました。最初の一部を以下に引用させていただきます。
“そもそもNMRの生体計測への応用は、1945年にBlochとPurcellらによってこの現象が発見された時に、既に始まっていたとも言える。というのも、Blochは自分の指をrfコイルに挿入して強大な信号を観測して悦に入ったし、一方Purcellも自分の頭が入る大きなrfコイルと磁石を用意して、精神集中時と弛緩時における吸収信号の変化を見つけようと試みたそうである。しかしこれらは単に生体中のNMR信号を観測したいという知的好奇心によるものであって、プロトンの空間的分布を測定し、これらを映像化するという考えには到達していない。これに近いアイデアを最初に持ち、さらに実験まで行ったのが、フランスのGabillardであり、1952年のことである。即ち、線形磁場勾配中での吸収線形を計算し、磁場不均一性の効果を評価した。線形磁場勾配を用いて位置の区別を共鳴周波数あるいは位相にエンコードするという考えがNMR映像法にとって本質的であるが、Lauterburの提案(1973年}以前にもこのような考えが存在していた。この線形磁場勾配を初めて意識して積極的に用いたのはCarrとPurcellで、彼らはこれを利用して拡散係数の測定を行なっている。さらに1952年にProctorらは、線形磁場勾配中で、特定の狭いスペクトルを持つ選択励起パルスによって三次元物体中のある二次元領域のみの核スピンを選択的に励起するという、断層映像法にとり不可欠の過程を理論的に議論し、実験的にも確認している。以上のように、NMR映像法に不可欠な諸概念は1950年代の初めまでに存在していたわけであるが、1973年のLauterburのprojection法によるファントム像が実際に示されるまで、NMRと映像とを結びつけて考えることはなかった。X線CTの場合にも、projection法の原理は1917年オーストリアの数学者Radonによって与えられていたにもかかわらず、HounsfieldとCormackによってX線CTスキャナとして結実するまでには悠に50年以上の年月が必要であった。両者ともいささか相似た事情にあると言ってよかろう。”
Appendix3.(パリティ 2003年12月号(丸善)掲載「MRIのノーベル賞」の解説記事から抜粋)
パリティ 2003年12月号(丸善)に掲載されました「MRIのノーベル賞」の記事のさわりの個所を以下に引用させていただきます。
“米イリノイ大教授のポール・ラウターバー(Paul C. Lauterbur)(74)と英ノッティンガム大名誉教授のサー・ピーター・マンスフィールド(Sir Peter Mansfield)(69)が、2003年のノーベル医学・生理学賞を受賞した。1970年代初頭において、後の医用画像における磁気共鳴の応用に繋がるMRI (magnetic resonance imaging)に関する独創的かつ発展性のある(seminal)発見(発明と言ったほうが違和感が無いが・・・)によりパイオニア的貢献をした事が受賞理由である。ハンスフィールド (Godfrey Hounsfield)とコーマック(A. Cormack )がX線CTの発明により1979年に早々と医学・生理学賞を受賞し、1980年代初頭のMRIフィーバ当初からノーベル賞受賞の呼び声が高かっただけに聊か遅きに失した感がある。それだけに、ノーベル財団としては満を持しての背水の陣の決定だったと舞台裏が種々憶測され大変興味深い思いがする。間髪を入れず、下馬評にあがっていたが選に漏れたフォナー社CEOのレイモンド・ダマディアン(Raymond V. Damadian)が、ニューヨーク・タイムズ紙とワシントン・ポスト紙に、「二氏の業績は私の発見した基本原理の単なる応用であり、自分にこそ受賞の権利がある。今回の受賞決定は恥ずべき誤り!」との過激な内容の20万ドルを掛けた全面意見広告を出して物議を醸したが、カロリンスカ研究所は「我々の決定は正しい!」と軽くいなした格好になっている。自ら考案した磁場焦点法により4.5時間もの時間を掛けて自らの胸部断層像を世界で初めて画像化してみせた執念の結晶とも言えるパイオニアワーク(1977年)が認められなかったわけで、ダマディアンの煮え返る胸中は察するに余りあるものがある。場外乱闘に縺れ込みそうな気配がするが、以下に説明するように、MRIの画像化手法として用いられている撮像原理は、ラウターバーとマンスフィールド、)並びに既に1991年に「高分解能NMR分光法の開発」により化学賞を単独受賞しているエルンスト(Richard R.Ernst)等によることは関係者の共通認識であり、ノーベル財団としては確固たる見識を示したと言えるのではなかろうか。”
“現在主流のフーリエ法MRIの撮像原理では、(1)位置情報をNMR信号の周波数情報にエンコードする周波数エンコード勾配磁場パルス、(2)位置情報をNMR信号の位相情報にエンコードする位相エンコード勾配磁場パルス、及び(3)3次元の被写体領域から特定の画像化領域のみをNMR励起する選択励起パルスの3つのアイデアが不可欠である。ラウターバー氏の受賞理由は、プレスリリースでは聊か回りくどい表現になっているが、意訳をすれば、「磁場勾配を導入することによりNMR信号に位置情報を付与し、これによって二次元画像の生成が可能なことを発見した。」とされており、MRIの根本原理である(1)に対応する。(2)は既に述べたエルンストによるもので、氏のMRIに対する貢献は本質的である。多次元NMR分光法の中にフーリエ法MRIも包含したフォーミュレーションを行っており、今日のMRIの姿を予言した内容である。(3)の基本部分はマンスフィールドによって考案されたものである。ところで、マンスフィールドの受賞理由は「磁場勾配の利用をさらに発展させ、有用な画像化手法の開発を可能とする信号の数学的解析方法を示した。これらは実用的な手法開発に対する本質的なステップになった。さらに、超高速イメージング手法“Echo Planar Imaging”を発明し画像化を達成した。」となっている。前半部の「数学的解析方法」が具体的に何を意味するかはミステリアスであり、k空間で考えれば極めて簡単に理解できる事柄を、1次元の時系列データとして七転八倒した創造的な産みの苦しみを感じさせる論文となっている。”
Appendix4. (日本磁気共鳴医学会編「NMR医学-基礎と臨床」(丸善)、
医用画像診断装置(コロナ社)分担執筆から抜粋)
① 久原重英先生と執筆しました、“7 MRIフロー計測”日本磁気共鳴医学会編「NMR医学-基礎と臨床」(丸善)から「はじめに」と「おわりに」の部分を以下に引用します。
“はじめに
NMRは,測定対象に与える擾乱が極めて小さく,生体計測に適した理想的な物理現象であり,特に,流体のマクロおよびミクロな運動を非破壊的に調べる有力な手法である. MRIを用いた血流計測法は,X線DSAおよび超音波ドップラー等の従来法に比べ,種々の特徴を有する. 例えば,X線のような電離放射線を用いず造影剤も不要なため,患者に与える苦痛。障害がなく,真に無侵襲的検査法である. また,磁場勾配の強度・方向および高周波パルスの中心周波数等の電気的パラメータを制御することにより,スライス面が自由に設定でき,さらに,3次元撮影も可能である. また,組織コントラスト・空間分解能も高く,血流速度の定量化もできる等の特徴をもつ.
NMRを用いたフロー計測は,BloembergenらによるNMR信号および緩和に対する拡散効果の指摘,およびHahnによるスピンエコー発見の直後,Suryanによって始められた. その後,Singerらを中心に地道な研究が続けられ,フロー計測に対する基本的アイデアが蓄積された. なかでも,CarrとPurcellの仕事は,線形勾配磁場を用いてフローや拡散(difusion)についての豊富な知見が得られることを明らかにした点で特筆に値する. 拡散項を有する場合へのNMRを記述する基本式であるBloch方程式の拡張は,Torreyによってなされ,Bloch-Torrey方程式として知られている. Hahnにより,位相法によるフロー計測の基礎である磁場勾配方向の流速成分と位相シフトの関係式が示された. Singerらによる流速分布関数計測法の研究は,de Gennesおよび福田らにより乱流の研究へと発展した. このような状況においてNMRによるイメージング法が提案され,流速分布の画像化が可能となった.MRIによる流速分布の画像化における最も基本的なアイデアは,Moranによるフローエンコードパルスである. フローイメージングと関係する分野として,造影剤を用いずに血流部分のみを抽出画像化できるMRアンギオグラフィがある. また,準ミクロなフローである組織内毛細管灌流(perfusion:微小循環)および拡散イメージングについても臨床適用に対する関心が高まっている. 表7・1に,NMRによるフロー計測法研究の歴史を示す.
以下,MRフローイメージング,MRアンギオグラフィおよび拡散/灌流イメージングについて基本的事項を説明する.”
“おわりに
以上,MRIフロー計測について,原理的側面を中心に解説した. MRIによる血流イメージングは,今後さらに発展が期待されるきわめて魅力的な分野である. これからの研究課題としては,(1)高速流や乱流のような時間的・空間的に複雑に変化する生体内の現実の流れの定量的イメージング,(2)MRアンギオグラフィの高分解能化およびこれに含まれる血流情報の定量化,(3)拡散・灌流イメージングの高精度化と臨床的意義の明確化等がある. MRIの最大の間題点であったスキャンタイムについては,Mansfieldによるエコー・プラナー法をベースとした超高速MRIにより50 msec以下に短縮されており,実時間MR血流イメージング装置の実現も可能になりつつある. MR血流イメージングの最終ターゲットとしては,心腔内血流の3次元実時間イメージング,および冠状動脈血流の3次元実時間イメージングによる立体的把握がある. これを可能にするには,イメージング手法をはじめとするソフトおよびハード両面の飛躍的な発展が不可欠である.”
② 医用画像診断装置(コロナ社)に分担執筆しました、「2.10.4 in vivo 多核種NMRスペクトルから 「(2) in vivo局所NMR計測法」の部分を引用します。
“(2) in vivo局所NMR計測法
NMR計測からみた生体の特徴は,空間的に不均一,物質的に複合した高度に複雑なシステムという点であり,空間的に充分に局在した領域のスペクトルが測定できて初めて有用な情報が抽出できることになる。in vivo NMR計測法としては,表2.6に示すように,NMRイメージングとスペクトロスコピーを統合することにより,二次元もしくは三次元的に広がった空間領域のNMRスペクトルを同時に計測画像化するスペクトロスコピックイメージングの手法と,注目する特定領域の局所スペクトルを計測する手法が存在する。さらに, in vivo局所NMR計測法は,大きく分けて,①静磁場勾配を用いる方法,②高周波磁場勾配を用いる方法,③パルス磁場勾配を用いる方法,の二つのタイプに分類される。”