私のMRI遍歴
埼玉医科大学 放射線科 新津 守
(私は臨床MRI機が稼働し始めた1980年代後半に臨床・研究活動を開始したので、いわゆるMR黎明期のあと、であることをご了承ください)
MRIをやるために放射線科へ:「マイナー科のメジャーな選択」
私は工学部卒で、ご丁寧にも某電機メーカーに1年間就職してからの医学部入学ですので、5年のハンディがあります。医学部入学時に、ほかの人と同じことをしたのでは埒があかないと思っていた1980年当時、MRIがようやく日本に上陸という時でした。フーリエ変換などを工学部で学んでいたので、「これだ!」と直感し、医学部2年生時点で、放射線科に行ってMRIを一生の仕事にすると決意。でも図書館で「NMR理論」などの書籍を読んでも(当然ながら)ちんぷんかんぷんでした。MRIにさわれる環境でもなく、医学部在学中はMRIの「夢」を膨らませるに終わりました。
井上多門先生と巨瀬勝美先生との出会い、つくばの環境
1986年医学部卒業後、筑波大学病院の放射線科へ。ジュニアレジデントとして画像診断の基礎研修を2年間。この間、MR時代の到来を控えて医局でMRI勉強会を発足。当時筑波大の理工系には東芝からいらした井上多門先生と巨瀬勝美先生がおられ、定期的な抄読会でMRIの基本を一からお教えいただけたのは大きな幸運でした。疑問になった理論的、技術的問題を質問するとすべて明快な答えと解説をいただき、本当に助かりました。また筑波研究学園都市には国立公害研の三森文行先生、工業技術院機械研の本間一弘先生がおられ、実験機での研究で大変お世話になりました。このつくばの環境は、駆け出しのMR初学者にとって理想的な環境だったと思います。
筑波大にSIGNAが入った
放射線科の初期研修を終え、大学院に入った1988年にGE社の1.5T SIGNAが筑波大に入りました。国内の大学では早っかたほうで、SIGNAとしては国内1桁台の納入だったかと思います。ただし国立大学の常として「金は出すがヒトはつけない」状況で、大学院生の私が、MRI運転の実務者に。保健所の認可が下りないとのことで、設置済みMRIをすぐには臨床に使えずに、半年くらいは私の「実験機」となってました。設置企業のYMS社の技術陣には大変お世話になりました。臨床撮像が開始されてからは、私がマシンの運転から修理、検査実施と注射、会計処理、そして読影、と一人でMRIと奮闘していました。そして夜中は実験と、大学のMR棟に住み込みの毎日でした。
日本磁気共鳴医学会(通称MR学会)
私の初の学会発表は1987年秋の岡山でのMR学会でした。当時は年2回の開催で演題を必ず発表することとし、その後ずっと私のメインの学会となりました。つくば関係の大会長だけでも、1984年亀井先生、1991年井上先生、1993年能勢先生、1997年板井先生、2006年三森先生、2010年巨瀬先生と多数いらっしゃいます。2016年の大会長に私が指名された折、交通と規模の関係から、1997年板井先生と同じ大宮ソニックシティを切望しました。実は、板井先生の時は私が実行委員長を担当しましたが、大会直前の1年前に会場を変更(それまで毎年使用していた都市センターが改修で使えず、仮予約していた砂防会館では手狭であることが判明)せざるを得ず、何とか予約できた大宮ソニックシティでは機器展示やポスター発表のスペースを十分に確保できなかった心残りがありました。2016年大会長をその3年前に指名を受けたので、即予約、大宮ソニックシティを十二分に活用し、電気自動車「テスラ」試乗会や日本酒試飲会など、良い思い出です(図1)。
大学院と博士論文
大学院では当然MRIをテーマに。ただし指導教員が不在で(板井悠二先生が筑波大に赴任されたのが1990年、大学院修了間際のメイヨー留学直前)、自分でいろいろ試行錯誤した挙句、膝関節のシネMRIを開発しました(図2-3)。これは膝をモーターを使って強制的に屈曲伸展させ、靭帯や半月板の動態を見ようとしたもので、高価かつ精密なMRI機のすぐ横にモーターを含むゴツイ装置を設置するという、MRI環境的には「暴力的」な撮像でした。この極端な「新規性」(その後、他から追試の報告なし)からか、ISMRMとRSNAに発表、Radiology にも投稿でき、私の学位論文となりました。この時の「膝」との出会いが、その後の私の専門にもなりました。
メーヨークリニックに留学
1991年に米国メーヨークリニックMR研究所に留学、最先端のSIGNAが病院になんと13台!(1991年にですよ)には度肝を抜かれました。Riederer先生、Ehman先生(お二人とものちにISMRMのpresident)の主催するMR研究所にも実験専用のSIGNAが1台、専属のGE派遣技術者に、放射線技師、プログラム専門家や実験器具作成技師、10数名のPhD大学院生という陣容で、MR研究の理想郷と思われました。そこではパルスプログラミングもやらせてもらい、少なくともSIGNAに関してはかなり奥まで理解できた(つもり)でした。また研究所では実験計画の立て方や論文の書き方を訓練され、最初の論文原稿は「Z会の通信教育」よろしく、真っ赤になって返却されたのを覚えています。
帰国後、パルスプログラミングもできるだけ継続し、MRI中心に画像診断の臨床と研究に没頭し、結果的にはMRI三昧の医師生活になりました。以前はMR装置のすぐ横で読影(技師が多忙なときは自分で運転)していたので、次々に出る画像をその場でチェック、次のシーケンスを考える、というinteractive operationが出来たのですが、今はMR装置になかなか触らせてもらえず、昔が懐かしいです。
以上、私の履歴を振り返ると、放射線科は(未だに)マイナーな科ですが、MRIは時流にのったメジャーな選択だったと思います(頭記の「マイナー科のメジャーな選択」)。