東大物性研と東芝でのMRI創世記の記録

巨瀬勝美

 私が最初にMRI(その頃はもちろんNMR-CTと言っていたと思います)のことを知ったのは,1980年頃(その後1980年5月28日付と判明)に朝日新聞に掲載された,東大物性研(+東芝)で取得されたレンコンの画像を見た時ではないかと思います.その記事の切り抜きを,研究室の後輩が,研究室内にしばらく貼っていたので,明瞭に記憶に残っています.

図1.1980年5月28日付の朝日新聞朝刊の紙面.縮刷版からのコピー.(実際,このような切り抜きが貼ってありました)

 私は,その年に博士課程の最終学年となり,そろそろ就職口を探さなければならないと思い,東芝総合研究所に入っていた研究室の2年先輩(吉田二朗さん)に,何かいい話があったら連絡して下さい,とお願いしていたら,5月(6月?)頃に,NMR-CTをやっている人が,「物理出のドクター」を探しているとの連絡を受けました.そこで,すぐに連絡をとってもらい,川崎市小向の東芝総研の応接室で,井上多門先生(当時研究主幹,その後筑波大教授,2009年当時の首相の義兄:もちろん当時は予想もしなかった)の1時間程の面接を受け,数日後にOKとの返事をいただきました.

 1981年4月に入社する前から,共同研究先の東大物性研(安岡弘志先生の研究室)に出入りし,先輩社員である佐藤幸三さん(医用機器事業部に中途入社されて,その後総合研究所に移られ,その後,さらに医用機器事業部に移られ,医用機器技術研究所長などを歴任,退職後に帝京平成大学教授)に,直接の指導を受けることになりました.その当時,医用機器事業部からは,杉本博さんや,鈴木宏和さんも,安岡研究室に出入りされたり,滞在されていました.また,医用機器事業部の幹部の方々が,実験室を訪問されたこともあり,「高名な超音波技術者」の方が,NMR-CTは,将来,モノになるかどうか分からないので,仮に,だめになっても,その技術が残るようにしなければならないね,というようなことを仰っていました.それくらい,NMR-CTに関しては,懐疑的な意見もあったようです.

 さて,1981年4月に入社し,お盆までは入社後の研修(エアコンの販売実習など)があり,お盆過ぎに,本格的に開発研究をスタートさせ,私は,主に,1400ガウスの空芯ヘルムホルツ型電磁石(均一領域は直径約6cmの円板状の領域:図2右)を用いた,小型MRIの制御部の開発を担当しました.私は,学生時代に,余技としてマイクロコンピュータのシステムを自作していましたので,ディジタル技術は大得意で,パルスプログラマーの開発(図2左)や,データ収集系の構築,マルチスライスの方式の開発(後出)などを担当しました.

 なお,当初,MRIのパルスプログラマは,パソコンのマシン語の命令で発生させる計画となっていました.それは,かつて,ミニコンを,NMR装置のパルスプログラマとして使っていた,良く知られた前例があったからです.ところが,当時売り出されていたNECのベストセラーの8ビットパソコン,PC-8001をマシン語で制御して,パルスシーケンスを出力しようとしたところ,パルス間のジッタが出て,とても使えないことが分かりました.それは,当時のパソコンには,DRAMが使われていて,CRTディスプレイも標準装備で,DRAMのリフレッシュや画面のリフレッシュのためのDMAの割り込みなどがあり,とても,マシン語のサイクルで正確なパルスが出せるような状況ではありませんでした.すなわち,かつて,磁気コアメモリや,テレタイプを用いたミニコンとは,大きく時代が変化していました.そこで,PC-8001のCPUであるZ80Aを,独立させ,Static RAMと共に使用することにより,この問題を解決しました(図3).

 この装置の開発と,基本的パルスシーケンス(選択励起パルス+スピンエコー法+プロジェクション法)の開発は,1981年の秋ごろから翌年の冬にかけて行い,1982年春の日本物理学会磁気共鳴のセッションで,入社後初の学会発表を行いました(図4).

図2.左はPC-8001を用いたパルスプログラマ,右は1400Gの空芯ヘルムホルツ型電磁石.持っているのはTexax InstrumentsのTTL ICのデータブック

 

図3.Z80を用いたMRI用パルスプログラマ.時間分解能は20μs.PC-8001で制御されている.実際にはZ80Aを使用した.

 

 

図4.1982年4月2日に,日本物理学会磁気共鳴セッションで発表した成果(横浜国立大学)

 前後しますが,この装置では,生卵やハムスターの撮像を行い,生卵の黄身が,殻の中で浮いていることを発見(?)しました.この装置は,ほとんど外部に知られることはなく,短命でしたが,この装置で開発した技術(パルスプログラマーの仕様,プロジェクション法における位相補正技術,マルチスライスの回路方式など)は,その年末に東芝に導入された,ブルーカー社の全身用0.15Tの4コイル空芯電磁石を用いたMRIシステムの基礎となるものでした.なお,この磁石の購入に関しては,井上多門先生と医用機器事業部の方が,1980年頃に(?),英国のOxfordの工場と西ドイツ(!)のBrukerの工場を訪問され,井上先生のプッシュもあって,Brukerの磁石になったというお話を,入社後に何度かお聞きしました.また,世界初の商用機(1983年発売)と言われる東芝のMRT-15Aの磁石は,このBrukerの磁石がベースになっているようです.

 さて,その磁石は,1981年末に那須工場に納入され,他のシステムとの統合試験が行われた後,1982年の3月末に大井町の東芝中央病院に搬入されました.私と佐藤幸三さんは,1981年の末頃に,那須の医用機器事業部でMRI開発のプロジェクトが立ち上がる,というので,1泊2日で,那須工場に出張して,プロジェクトの発足式の夜のパーティーに出席した記憶があります.今だから書けますが,当時,東芝社内では,MRIのプロジェクトに関する医用機器事業部と総合研究所の間で,激しい綱引きがあり,いつどこで最初のMRIの画像が得られるか(那須工場か東芝中央病院か)に関しては,さまざまな動きがありました.このようなものを通して,会社内のバトルの仕方も,教わったような気がします(その後の社歴における参考にはなりませんでしたが).そして,MRIの開発プロジェクトが一段落して,医用機器事業部から総合研究所への研究委託に伴う技術移転の評価額が,100億円のオーダーだったと井上多門先生から聞かされ,総合研究所としては,前代未聞の評価額だったとも聞かされました.

図5.東芝中央病院における開発状況(佐藤昌孝さん,畑中さん,鈴木宏和さん,五島さん,筆者(後段)).JIRAのHPより(左右逆).

 1982年4月以降は,東芝中央病院において,当時総合研究所所属の佐藤幸三さんが現場の指揮を執り,医用機器事業部から鈴木宏和さん,東芝メディカルから佐藤昌孝さんと武藤さん,そして私が現場の開発メンバーとして常駐して実験を行いました(図5).

 確か,頭部の良好な断層像が出たのは,5月頃だったと記憶しています.その後,開発が加速し,ある程度の画像が撮れたところで,臨床試験をやろうということになりました.その臨床試験を担当された方が,当時の東大放射線科の医局長で,現在,山梨大学放射線科教授で現日本磁気共鳴医学会会長(2009年当時)の荒木力先生です.そして,その成果は,1982年7月の第2回日本磁気共鳴医学会大会で発表されました.荒木先生が行われた講演は,座長の松浦啓一先生(九州大学放射線科教授)から,日本で最初のMRIの臨床例の報告ということで,大変なお褒めの言葉をいただきました.当時の臨床画像は,翌年発売になった,国産初のMRIの商用機であるMRT-15Aのパンフレットにもいくつか掲載されていますが,当時の画像として,一番自慢できる画像が,下に示す画像(図6)です.これは,私自身の上半身に最適化した楕円形状のボディコイル(自作)で撮像した,正中サジタル断層像です.当時の画像としては,SNRが非常に良好で,プロジェクション法のため呼吸性のアーチファクトもほとんど見られていません.

 この画像は,別途撮られた私の頭部画像と組み合わせて,新聞発表されたり,色々なところで使われました(図7).

図6.自作のBodyコイルで撮像したサジタル像(1982年のRSNAでも展示された)

図7.当時の東京大学物性研究所安岡研究室の様子.所内の一般公開でも公開した.

図8.マルチスライスのための回路方式.多分,実機で長い間使われていたと思う.特許化していれば良かった.

図9.UnixミニコンピュータシステムであるUX-300と自作のグレースケールディスプレイを用いた画像再構成システム

 

 1982年の8月過ぎに,東芝中央病院における0.12Tシステムの立ち上げが終わったので,その後,0.15Tシステムへの移行が行われましたが,この部分は,主に医用機器事業部の方々が中心となって行われました.そして,私は,懸案だった,マルチスライスの方式の開発などに注力しました.図8に示すのは,私が考案した,マルチスライスのための,パルスシーケンスに同期して送信周波数を切り替える回路方式です.この回路は,PCから,出力ポートに,スライスの中心周波数をあらかじめセットしておいて,その値に比例した電圧でvoltage controlled oscillatorを制御して,ROMの読出しクロックを生成し,その後,パルサーに同期してアドレスカウンターをリセットし,それからROMに書いてある三角関数の値を読みだしてDA変換して波形を生成し,それによって,Quadrature modulatorによって送信周波数を得るものです.この回路のメリットは,スライスのためのオフセット周波数を,1個のデジタル値で,簡単に指定できることです.同様なことは,200~300万円するようなデジタルシンセサイザを使えばできそうですが,恐らく,10~20万円くらいの部品代で,同様のことができました.この回路は,多分,数年以上は使われたのではないかと思っています.

 なお,当初,東芝では,いわゆるプロジェクションを採用しましたが,多くの理由から,いわゆるフーリエ法へ移行する必要があり,そのための研究用MRIシステムの構築も行いました(図9).グレースケールディスプレイのフレームメモリ部は,完全自作で,UX-300とは,GP-IBにより接続されています.このシステムを用いて,流れのイメージングや,ケミカルシフトイメージングも行いました.また,退職する前には,EPIの基礎実験なども行いました.

 さて,私は入社して約5年後の1985年末に東芝を退社して1986年1月に筑波大学に着任し,それ以降も,MRIの研究と教育を行い,2018年3月には,無事に,定年退職を迎えることができました.そして,東芝時代のMRIの研究経験は,ずっと筑波大学における研究教育の基礎となっておりました.

(日本放射線機器工業会(当時)に,2009年12月,「MRI創世記の頃の体験-東大物性研,東芝中央病院,東芝総研にて-」として提出した原稿から大幅改変)