京都府立医科大学 脳神経外科・放射線科 NMR/MRI研究グループの経緯

(1979年~1999年までの研究の経緯をまとめた業績集からの抜粋)

目   次

はじめに

京都府立医大脳外科・放射線科のNMR研究の歴史  ‐‐‐‐‐‐-‐‐(成瀬昭二)

核磁気共鳴法研究初期の想い出  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐(堀川義治)

MRのはじめの頃  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐(田中忠蔵)

主なNMR関連業績 

使用装置及び研究グループ写真集

はじめに

 私がNMR(核磁気共鳴法)の医学応用の研究を始めて、今年(1999年)で丁度20年を過ぎました。人間で言えば成人式を迎えたこととなるわけですが、同一テーマの医学研究の継続という点では、非常に齢を重ねたものであると言えます。思い返せば、一地方の公立大学の中で、しかも主幹教室を持たない私達がこのような最先端の医学の領域の研究を続けてこられたのは稀有なことと考えています。これは、偏に私達を見守り、支えてくださった第一生理学教室、脳神経外科学教室及び放射線医学教室の主幹教授の先生方と、私とともに苦労を分かち合ってくれた多くの同僚、後輩の皆様のお陰であると深く感謝しています。特に、元生理学研所超微少形態部門長の亘弘先生、京都府立医科大学脳神経外科学教室の元教授平川公義先生および第一生理学教室前教授森本武利先生には、私たちの研究活動を指導し、暖かく見守って頂いたこと本当に深く感謝しております。また、第一生理学教室元助教授の西川弘恭先生、元京都府立医科大学脳神経外科学教室の堀川義治先生、田中忠蔵先生には、研究開始の早期から寝食を共にして苦労を分かち合って活動していただいたこと、また後に、同脳神経外科学教室の樋口敏宏先生、恵飛須俊彦先生、更にここ数年間、放射線医学教室で古谷誠一先生に研究グループに加わっていただき、大変なご苦労をおかけしたこと、本当に有難く感じるとともに、今日まで来られたのもこのような素晴らしい人々に恵まれていたからと感謝の念に絶えません。

 ここに21世紀を目前にして一旦、20年目という区切りをつけるため、今までの私たちの研究の歩みをまとめてみることにしました。本来10年目で、まとめをする予定でしたが諸般の事情で20年という区切りでのまとめとなりました。私たちのNMR研究の歴史および概略は、本文中に述べてありますが、我が国で最も早く臨床医学系でNMRの研究に取りかかり、方法や解析法などすべて我々独自に開発して研究を進めてきたこと、また、世界に先駆けて発表できた研究成果があることは、運が幸いした面もあるが、最大の誇りに思っております。また、私が生まれた年にNMRが発見され、私が医学部を卒業した年にNMRの医学応用が開始されておりますが、これらは偶然とは言え、何かの縁であるとしみじみとNMR研究との因果をかみ締めております。

 NMR研究には、多くの研究費と設備およびそれを運用する体制が要求されており、我が国でも素晴らしい装置を備えた施設が出来つつあります。一方、われわれを取り巻く京都府立医大の環境でNMR研究を続ける事は難しくなってきていると痛感しています。しかし、私達はNMRの医学研究の先駆者としてこの素晴らしい方法を更に発展させるよう、これからも研究を続けてゆき、少しでもよりよい医療の一旦を担えるようにしたいと考えております。また、この素晴らしい方法を21世紀の後輩たちにこれを引き継いで行くことができるよう全力を尽くしたいと考えております。

 今後とも、引き続きご指導、ご支援を賜りますようどうぞよろしくお願い申し上げます。

1999年3月吉日

                 京都府立医科大学 脳神経外科学教室・放射線医学教室

                               成 瀬 昭 二

京都府立医大脳外科・放射線科のNMR/MRI研究の歴史

-  NMR協奏曲第1番ト長調  -

京都府立医科大学 脳神経外科学教室・放射線医学教室

成 瀬 昭 二

Ⅰ.第一楽章 Allegro vivace

 年代もののテレタイプがガチャガチャと音を立てて何かを打ち出したとたん、西川弘恭助教授の興奮した叫ぶ声が聞こえた。「おい、成瀬君!信号が出たぞ!!」。彼の指さす5インチの旧式のCRTには規則正しく消え行く波形が記録されていた。それはわが国で初めて、ラットの脳から1H-NMR信号が検出された瞬間であった。1979年初夏のある日の、薄暗い地下室の片隅での出来事が昨日のように思い浮かんでくる。これはまた、世界のNMR医学研究の歴史に於いても黎明期の出来事であった。あれからもう20年の歳月が経った。過ぎ去った時の流れがいかに早いかが身にしみて感じられる。この間、実にいろいろなことがあったーーー。

 修練医時代に思いもよらず闘病生活をしいられた私は、臨床現場への復帰に先立ち脳浮腫の基礎研究を再開したが、その過程でNMR法という水分子のプロトン(1H)を非侵襲的に測定できる手法があるということに気づいた。これを用いれば、脳浮腫組織内の水分子の存在状態が非侵襲的に解析でき、従来の方法にはない情報が得られると考えて、早速研究にとりかかろうと思った。幸いなことに、当時全国の医学部で唯一つのNMR装置(PFT100, JEOL)が当大学第一生理学教室にあり、同級生である西川弘恭助教授がその研究を行っていた。これは、元第一生理学教室教授の亘弘先生が残されていったものであった。早速、当時の脳神経外科学教室教授平川公義先生および第一生理学教室教授森本武利先生のご高配をえて、西川先生と実験を開始したのは1979年の5月であったと記憶している。今でこそMRIやNMRといえば一般の人でも知っているが、当時の医学分野ではその単語すら全く知られていなかった。当然、NMRに関する医学系の書物は皆無で、わずかに関連ある生体系高分子のNMRに関する書物でも、生体組織からNMR信号を測定するなどという技術はどこにも記載されていなかった。やむを得ず私たちはNMRの測定法や解析法のみならず、脳組織の摘出法、処理方法などすべて独自に考案し開発していかざるを得なかった。試行錯誤の結果、ようやく冒頭のように信号を取れるようになった訳であるが、それからというものは、西川先生とともに昼夜をとわずNMRの測定に没頭した。研究の進展とともに共同研究者が必要となり、脳神経外科学教室の堀川義治先生(現大阪吹田済生会病院脳外科部長)、田中忠蔵先生(現明治鍼灸大学脳神経外科教授)に実践戦力として加わって頂けた。ここに、京都府立医大脳外科のNMR研究グループが誕生したのである。その後、幾多の苦難、変遷を経つつも、この3人のメンバーを核に多くの人が集まり、一地方の公立医科大学の中の小グループで独創的な研究活動が続けられてきたのである。

 1979年から1982年までは、このNMR装置を用いて実験的脳梗塞、実験腫瘍、手術摘出腫瘍組織などに対してin vitroの緩和時間測定とin vitro 1H-NMR spectrum解析を行ってきた。当時の京都府立医科大学脳神経外科学教室は設立されたばかりであった。全国の医学部でほぼ最後になっての創立で、スタッフは少なく研究設備もほとんどなかった。このような貧弱な環境下でも、全く新しい研究を行っているということを対外的に広く周知するために、できるだけ国内の多くの学会で発表を行うということと、積極的に海外の雑誌や学会で発表を行うことを重点において研究成果の公表を行っていった。しかし当時、国内の医学会でNMRといっても何のことか殆ど理解してもらえず、発表の初めには必ずNMR(核磁気共鳴法)と述べて簡単な注釈を加える必要があった。今でもはっきりと覚えているが、ある脳神経外科関連の学会で座長が演題名紹介で気を利かせてくれて「核磁気共鳴法、Neuro Magnetic Resonance」、と紹介されたこともあった。また、不慣れな英語を用いて、後にのべるSMRM (Society of Magnetic Resonance in Medicine)などの海外の国際学会で積極的に発表していった。

Ⅱ.第二楽章 Andante cantabile

 1982年は私たちのNMR研究にとって更なる発展をとげた忘れなれない年になった。それは、愛知県岡崎市の国立生理学研究所(生理研)の亘弘教授主幹の超微小形態部門に設置されたTopical Magnetic Resonance (TMR)という装置を用いて共同研究を行うことになったからである。この装置は、口径が30cmの横置きの超伝導磁石で構成され、動物の身体の一部分からリンのNMRスペクトルが測定できるという、当時としては画期的な装置であった。これは、英国Oxford Research社から1年間の期限付きで貸与されたもので、確か生理学研究所の装置は世界で4台目だったと記憶している。全国から数グループがこの装置を用いて共同研究を行っていたが、私達も多くの実践的なデータを得ることができた。途中から加わった香川医科大学麻酔救急部の横野諭先生と昼夜の時間を分かちつつ24時間体制で活気に満ちた研究を続けた。ラット実験的脳梗塞モデルと移植腫瘍モデルを用いていたため当時私は毎週、京都と岡崎とをラットをつれて往復をする生活が続いた。堀川、田中両先生も臨床で多忙ななか可能な限り時間を割いて応援に駆けつけてくれた。この努力の結果、ラット脳梗塞モデルを用いて脳虚血部位のリンのNMRスペクトルの可逆性を世界で初めて発表しえた。また実験腫瘍では治療効果への応用の可能性を示し、米国のグループとの切磋琢磨の競合を行い、私達の研究が国際的に認められるようになってきた。

 1984年、文部省科研費一般研究(A)の助成を受けることができ、待望のin vivo NMR装置を設置できることとなった。日本電子(JEOL)と共同で、縦型大口径(9cm bore)NMR装置で、1H-NMR imaging(1H-MRI)と31P-NMR spectrumがとれるハイブリッドタイプの画期的な装置を開発することとなったのである。この開発でJEOL側の中心となったのは、現在、明治鍼灸大学MRセンターで我々のグループの一員として活躍中の梅田雅宏先生であった。この装置を用いても数多くの研究を行った。特に移植腫瘍での種々の治療効果判定に対する31P-NMR spectrumの有用性の検討や、NMRの電磁波を用いてNMR装置内でRF hyperthermiaを行い、その効果を同時に判定する方法など、非常に独創的な研究を行えた。また、このNMR装置が完成された頃から、脳神経外科学教室の樋口敏宏先生が新しく我々のグループに加わりラット脳の19F-NMR測定からNMR研究のスタートを切った。

 同じ1984年からは臨床装置をも使えるようになった。それは、島津製作所のMRセンターにて設置された超伝導装置(0.5T)を用いて、臨床応用開発を共同で行うことであった。これは我国でもっとも早く超伝導装置を臨床で応用したものとなったのである。多くのvolunteerや患者さんをMRセンター内の第2島津診療所へ連れてゆき、測定方法やデータ解析などの検討を行うと共に臨床治験を行った。また、新しい種々の測定法(合成画像、拡散強調画像、など)を開発していった。 この研究開発の流れの中で、1986年には島津中央研究所に2.0T磁石が導入されたので、それを用いて我国の装置で初めて31P-NMRスペクトルを人の脳から測定した。その後これは残念ながら継続されなかったが、MRS臨床応用で一つの役割をなした。

 1985年からは、脳神経外科学教室の恵飛須俊彦先生がNMR研究グループの加わり、拡散強調画像法の開発を研究テーマとして、動物基礎実験と臨床応用に取り組んでいった。

 その間、外国からの留学生や製薬会社の研究開発者が私達のNMR研究グループに加わり、主として動物実験装置を用いて共同研究を進めた。武田薬品中央研究所の永井康雄氏(1985年4月~1986年8月)、フランス国レンヌ大学のLaurence Le Moyec博士(1986年2月~6月)、タイ国チュラロンコン大学のSompongse Chinayon博士(1986年10月~11月)、小野薬品中央研究所の町井活司氏と脇谷之清氏(1987年)、旭化成中央研究所の青木喜和氏と武井 氏(1990年~1991年)、などが、それぞれのテーマでNMRの動物実験装置を用いて研究を行っていった。この流れは現在でも、大正製薬健康科学研究所の中森克氏(1998年4月~現在)、藤沢薬品工業薬理研究所の勝田清貴氏と同基礎技術研究所の藤川昭彦氏(1998年4月~現在)と続いている。

Ⅲ.第三楽章 Menuetto and Trio

 1986年12月から11ヶ月、私は米国の2カ所の研究所でMRスペクトルに関する研究を行う機会を得た。一つはカリフォルニア大学サンフランシスコ校VA Medical CenterのProf. Micheal Weiner教授の施設でMR Spectroscopy (MRS)の臨床応用開発に携わり、もう一つは、ペンシルバニア大学の生物物理学のProf. Britton Chanceの研究室でMRSの基礎的研究開発に携わった。この米国での経験では、MRSに関する技術的な情報が得られたこともさることながら、最大の収穫は米国の研究施設と体制のすばらしさを体得したことと、多くの友人を得られたことである。これは、その後の私たちの活動に非常に大きな力となっている。その間、国内では明治鍼灸大学にMRSが測定できる最高級の臨床用装置(1.5T Gyroscan S15, Phillips)が導入され、田中忠蔵先生が赴任しその運用を担当することとなった。コイルの自作などの初期の開発苦労を経験しつつ、1987年暮れ頃からわが国で初めての局在スペクトルが脳、筋肉、肝臓などで測定され、その後次々にMRSの臨床応用に関する新しい結果を発表していった。さらに引き続き、1988年4月には動物用実験装置(4.7T、Nicolet社)も同じ明治鍼灸大学に設置されることなり、動物実験による基礎的研究がさらに発展可能となった。

 京都府立医科大学付属病院にも1988年暮れに京都府民に最高レベルの医療を提供できるようにとの目的で、MRS測定が可能な最高機種(Magnetome H15, 1.5T, Siemens)が設置された。そして、それを運用する専属のポストが設定され、私が放射線医学教室・脳外科学教室の兼務という形で担当することになった。日常臨床業務は放射線科医局員とこなしていき、MRI/Sの研究は放射線医学教室の古谷誠一先生と、池尻守氏、拵信博氏の優秀な放射線技師の協力が得られ、彼らと1H-MRS臨床応用の研究を開始することとなった。当時のMRI装置にはMRSに関する十分な測定法や処理法は搭載されておらず、やむを得ずドイツ本社の了解のもと日本の技術者(シーメンス旭メディテックの宮崎敏広氏)と共同開発を開始した。目標としたのは、誰でも簡単に測定できるMRSの臨床実用化であった。MRSの研究日を木曜日に定め、この日は深夜まで研究開発を続けた。特に、1H-MRSを脳内の多くの領域から同時に測定できる1H-CSIの開発を重点的に進め2-3ヶ月後には測定可能にできた。本方法がほぼ実用に達するまでは約3年を要したが、その後最終的にこの方法がドイツ本社で採用され、現在の臨床装置に取り入れられている。また、本装置は設置後11年経った1999年の今でも、MRSの測定できる数少ない臨床MRI装置として活躍中である。このMRSの開発過程を通じて、古谷誠一先生とは臨床、研究の面から苦労を分かち合う事となり現在に至っている。

 このMRS開発に平行して、1989年に2台目のMRI装置が京都府立医大付属病院に導入された(SMT150X, 1.5T, 島津製作所)。当時としては、大学病院で2台の1.5T装置が導入されている所は少なかったと記憶している。

 一方、明治鍼灸大学でも田中先生を中心にMRSの臨床応用が進められ、1H-MRSでは京都府立医大と明治鍼灸大学の両施設が発表を競い合うと言う形となった。1990年からは明治鍼灸大学に物理学専門の梅田雅弘先生がNMR研究グループに加わり、ようやく欧米のようなNMR研究体制が整った。

 また、1989年から2年間、樋口敏宏先生が米国カリフォルニア大学サンフランシスコ校VA Medical CenterのProf. Michael Weiner研究施設のDr. Andrew Maudselyのもとへ留学をし、我々を含めたNIH grant下での共同研究で、実験的脳虚血の1H-CSIの研究を行った。

 引き続き1991年から2年間、恵飛須俊彦先生が同じ部所へ留学し、ラット実験てんかんモデルで、1H-CSIの研究を行った。代わりに京都府立医科大学脳神経外科では、徳満拓明先生がNMR研究グループに加わった。徳満先生は1993年から2年間、恵飛須先生のあとUCSF-VA Medical Centerへ留学して研究を引き継いだ。さらに1994年から、竹上哲郎先生がグループに加わった。

 京都府立医科大学放射線医学教室では大学院の先生方が臨床装置によるMRIの研究を行ってこられた。明治鍼灸大学では青木伊知男君、福永雅喜君,染谷芳明君,渡辺康晴君、森勇樹君が、ユニークなNMR研究を続けておられる。

 また、東京都老人医療センター核医学診断部の間島寧興先生との共同研究も始まった(1991年~)。

 更にまた、1997年度にルイ・パストゥ-ル医学研究センター(岸田綱太郎所長)に、日立メディコの1.5T装置が導入され、日立メディコ・日立製作所中央研究所との高機能を備えた高磁場装置に関する共同研究も始まった。

Ⅳ.第四楽章 Molto allegro

 SMRMというのは、Society for Magnetic Resonance in Medicineの略名で、1982年第一回の学術大会を開いて以後、毎年8月の中旬に年次大会を開いていた。この会はNMRの医学応用に関する学術的に最も活発な、世界で最大規模の学会で、毎年多くの新しい技術が発表されていた。従って欧米のPh.D、MD達の過酷な戦いの場所でもあった。このSMRMは現在、もう一つの学会組織であったSociety for Magnetic Resonance Imagingを吸収合併して、ISMRM  (International Society for Magnetic Resonance in Medicine)という名前となり、依然として活発な学会活動が続けられている。私達はこの、SMRMに第2回大会から毎年複数の演題を発表してきた。大会の開かれるのは例年8月の中旬で、航空運賃は極端に高く、またこの会に出席するために夏休みも十分とれず、NMR研究グループのメンバーおよび家族には多大な迷惑をかけたと思う。しかし、多くは独身であった気楽さもあってか、それなりに大会の後の旅行を楽しんだりもしたものであった。ただ、旅費はすべて自費で行かざるを得ず、経済的には皆に多大なる負担をかけたと今でも申し訳ない気持ちである。さて、第2回SMRM大会は1983年8月に米国サンフランシスコで行われた。私は体調不良にて残念ながら参加できなかったが、代わりに発表してもらった堀川先生、田中先生は、1000名を超える聴衆者であふれる大ホールで、その研究成果を発表し多くの質問攻めに会い驚嘆したと、今でも語り種となっている。

 私達は、このSMRMでの発表を通して、多くの欧米の研究者と友人になった。また、私はSMRMでは早くから口演発表や教育講演などの座長役を務めてきている。さらに、磁気共鳴医学の分野ではJournal of Magnetic Resonance Imaging、Magnetic Resonance in Medicine (これら2つはISMRMの機関紙である)、NMR in Biomedicine, および Magnetic Resonance Imagingの四大学術誌があるが、私はこれらすべての編集委員を務めており、ISMRMを中心とする磁気共鳴医学での国際的に広く活動できるようになった。さらに、1999年10月から、NMR in Biomedicine (John Wiley and Sons社、英国)のJapanese Associate Editorに選ばれ、我国での本雑誌に対する投稿原稿の採択を決定する重役を担うこととなった。

 国内においては、1981年に発足した磁気共鳴(NMR)医学研究会が1986年に日本磁気共鳴医学会(Japan Society for Magnetic Resonance in Medicine; JMRM)となり、発足時から私は評議員に選ばれ、1987年9月→1991年9月と1993年9月→1998年3月の二期にわたり、日本磁気共鳴医学会 理事として活動を行っている。そして後で述べるように、1998年9月26日~28日には第26回日本磁気共鳴医学会大会を、1999年1月27日~29日には第2回日本磁気共鳴医学会国際シンポジウムと府民公開医学講座を国立京都国際会館で開催し、多数の参加者をえて盛会裏に会を終えることができた。

 この間、研究活動は新しい局面を迎えた。今まで行ってきた基礎的研究を臨床レベルに発展させ、脳を中心とする生体の機能代謝循環を非侵襲的に画像で表示、解析できる方法を開発、実用化していった。これらはすべてわが国で独自に開発実用化していった。例えば、1993年年初には脳機能画像法(functional MRI (fMRI))をいち早く臨床装置で可能ならしめた。また、明治鍼灸大学のMRI装置が更新され、全国に先駆けて超高速画像法(Echo Planar Imaging; EPI)を実用化し、さらにEPI-Diffusion画像法を実用化して、脳血管障害の超急性期の診断に対する有用性を示した。さらにまた、実験動物および臨床装置で、造影剤をまったく使わず血管内の水分子を指標として脳内の血流情報を画像化する方法を開発、実用化していった。これらは、主に明治鍼灸大学で行われたが、これには明治鍼灸大学に大学院が設置され、優秀な大学院生達が活躍している賜物である。青木伊知男君、福永雅喜君、渡辺康晴君、染谷芳明君、森 勇樹君など今後NMRの分野で活躍の期待できる人達が明治鍼灸大学で育ってきていることは非常に頼もしいことである。

 このように今まで研究が継続できたことの背景として、文部省科学研究費はじめ多くの研究助成金を得られたことも幸いしている。

Ⅴ.フィナーレ:JMRM大会とISUM99

 1997年4月の日本磁気共鳴医学会(JMRM)理事会で。私に、平成10年度の第26回日本磁気共鳴医学会大会大会長と第2回日本磁気共鳴医学会国際シンポジウムの実行委員長を引き受けるよう依頼決議があった。私にはこのような大きな会を開催する立場にいるとは思えなかった。しかし、以前にJMRM大会長の依頼を2回断っている経緯と、私のような立場のものが大会を開催してこそ基礎から臨床領域まで広い範囲を包括するJMRMの意義があると学会長から言われたことが引き金となり、この依頼を引き受けることとにした。

 開催に至るまでいろいろなことがありましたが、ここでは開催の日程と各々盛会裏に終わったことのみ記載しておきたいと思います。

・第26回日本磁気共鳴医学会学大会:1998年9月26日~28日:国立京都国際会館。

・第2回日本磁気共鳴医学会国際シンポジウム(Intnational Symposium on Ultrafast Magnetic Resonance Imaging in Medicine(ISUM`99):1999年1月27日~29日:国立京都国際会館

・府民医学公開講座:1999年1月29日:国立京都国際会館

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追 記:その後の状況(2004年まで)

学会の動向
① JMRM: 2000年の第28回日本磁気共鳴医学会は明治鍼灸大学の西川恭弘教授主催で行われた。開催場所は第26回大会と同じく国立京都国際会館であった。西川先生は我々グループの創成期の恩人であり、臨床系の学会には馴染が少ないため、準備・運営に関して我々もお手伝をさせていただいた。大会は、大成功裏に終わった。


② ISMRM: 長年の懸案であったISMRMの京都大会は2004年5月15日~5月21日にかけて、国立京都国際会館で盛大に開催された。この経緯を語れば、膨大になるので簡単に記載する。ISMRMの京都開催は、遡ればSMRM創設初期に至る。1984年頃から二度にわたり、京都開催が決まりかけては消えていた。今回は、熊本大学の高橋睦正教授を現地実行委員長として、平敷淳子教授、小生、が中心となって準備活動を行い、ようやく実現しえた。しかし、順風に決まったわけではなく、前年には一旦決まっていた国立京都国際会館(KICH)が狭いとの理由で、再見直しするような意見もでてきた。事実、ISMRMスタッフが横浜、神戸など他の都市への再訪問し、再調査をされた。しかし、ISMRM Board memberとしてKICHの優位性を説明できたこと、1999年のISUM99での会場運営のスムーズさを認識してもらえたこと、更には ISMRM 2004の会長が、小生の友人のProf. Mike Moseley (Stanford大)であったことなども関係しでようやくKICHでの開催が決定された。いずれにしろ、難産のすえ、2004年の大会は京都で開かれた。ISMRM Officeの懸念であった参加人数は、4300名を超える過去最大の規模となった。日本人のために当日のトピックスを日本語で解説するという企画も行ったが、日本人の参加者は約300人と少なかった。しかし、KICHの職員も方々からは、会場内は外国人ばかりであふれ、本当の国際会議を開いたという実感がしたという、ありがたい印象を語ってもらった。会期中は残念ながら天候が悪かったが、会場内は熱気にみちみちて、活発な学術的討論、展示、イベントホールでの機器展示、など過去のISMRMに引けを取らない素晴らしい学会となった。最終日前日には、懇親会が開かれた。あいにくの雨のため、KICH館内で、3000名が参加して身動きもとりにくい中で行われたが、かえって近親間がもててよかったとの意見が多かった。午後8時、それまで降っていた雨が小止みになる中、打ち上げ花火と仕掛け花火が盛大に催された。フィナーレを飾るにふさわしいでイベントであった。

                      (2004年6月  成瀬 記)

核磁気共鳴法研究初期の想い出

済生会吹田病院 脳神経外科部長

堀 川 義 治

 京都府立医科大学脳神経外科学教室において、核磁気共鳴法を用いた研究をはじめ20年以上を経過しました。この間我々を取り巻く環境は大きく変わり、現在では核磁気共鳴画像(MRI)は臨床では無くてはならない診断法として医学の世界に定着してきました。私が大学を卒業し、脳神経外科学教室に入局した当時は、X線CTもなく、今から考えると隔世の感を感じます。世に先駆けて核磁気共鳴法の臨床応用に取り組んできた我々のグループにとって、昨年、成瀬先生が日本磁気共鳴医学会総会と国際シンポジウムを主催された事は、一つの区切りの年だったようにも思われます。この期に“我々の業績を整理したいが、当初から研究に関わった田中忠蔵先生と3人で何か文章を”、とのお話を成瀬先生から頂きました。我々のグループの研究活動が、世の中一般の医学者の研究活動と比較していかほどの差があるのか私にはわかりませんが、世界の中でもそれなりの成果・評価を収めることが出来た事は、幸運であったと言えます。更に、この研究活動に一時的にしろ積極的に関われた私にとっては非常に興味深い、楽しい経験であった事は確かであります。我々が核磁気共鳴法の研究に関わるようになったいきさつはそれぞれ理由はあるものの、脳神経外科学教室が新設され、各人が教室の研究テーマを模索していた頃に始まりました。核磁気共鳴法の研究は、第1生理学教室で亘教授が始められ、その後第1生理学教室の西川先生、吉崎先生等の筋肉を用いた基礎研究によって、生体応用の方法論が確立されてきていたところであり、その方法を脳に応用する事から始まりました。ラットの実験的脳浮腫モデルを使って緩和時間を測定する事から始め、脳腫瘍へと広がって行きました。当時、こんな事は今まで誰もやった事はないであろうと予想しておりましたが、世界は広いもので、脳のプロトン緩和時間測定となると、数年前に既に数編の論文が出てきた事は驚きでありました。我々はとにかく膨大な資料とデータの山を築き、平日の夜と日曜祭日はモデル作り、測定、データ整理にすべて費やしておりました。データが出始めると今度は学会発表の繰り返しで、当時の平川公義教授の言葉を借りると“後にはぺんぺん草も生えないように”データを取りながら発表を繰り返しました。当時、我々にはコンピューターの知識もなく手作業での解析を行なっており、第1生理学教室の先生からあきれられた事もありました。また、医学の世界では核磁気共鳴法そのものがまだほとんど知られておらず、学会発表をしてもNMR(nuclear magnetic resonance)の事を座長の先生からNEURO magnetic resonanceと紹介され、落胆した事もありました。その後、仕事は運にも恵まれて更に拡大し、岡崎国立生理学研究所に移籍されていた亘教授の指導下でのTMR(topical magnetic resonance)法を用いたスペクトルの研究から、我々が科研費で購入したSCM-200 spectrometerを用いた研究へと広がって行きました。この間、世界の中では世界中の医療機器メーカーが臨床用核磁気共鳴装置の開発に本気で取り組み始め、この流れの中で世界と相手にして戦うようになりました。とはいえ、我々の研究グループも人手不足は深刻となり、樋口先生を加えて活動して行きました。樋口先生には東京の昭島にある日本電子株式会社の研究所に一年の間毎週通ってもらいました。もちろん、教室の当直、出張等のdutyは毎週の後半にかためてこなしてもらい、前半には東京に行くという生活をしてもらいました。今から考えるとなんと無理な事を平気でやらせていたことかと反省されます。降り返ってみると、この頃までが我々のグループの基礎作りの研究活動の時代であり、私にとっての研究活動の楽しい思い出にあふれた時期であったように思われます。この後、田中忠蔵先生はPhillips社製の装置の導入とともに明治鍼灸大学に赴任し、成瀬先生はSiemens社製の装置の導入とともに放射線医学教室に移籍し(脳神経外科学教室との兼務ではありましたが)、と我々の活動範囲も拡大してきました。私は、洛和会音羽病院に赴任する事となり、実際の研究活動からは一歩下がった環境になりましたが、その後も我々のグループには恵飛須先生、梅田先生、古谷先生、徳光先生、竹上先生と次々に我々のグループに加わり、更にさまざまな企業の研究者や、フランスからの留学生も加わり、我々と共に研究を発展させてきました。今となっては、人生を狂わされたと嘆いている人も中にはあるかもしれませんが、私にとってはこの研究を通して、国内外を含め多くの医者や研究者、企業の人々と交流を持つ事が出来、考え方の多様さを知る事が出来た事が私の一生の中での宝として残って行くものと確信しております。

 考えてみると私も50歳を過ぎ、音羽病院に出張して以降は臨床の現場の仕事にかまけてあまり研究活動をしてきたとは思われません。それでも雑誌、文献を拾い読みして、せめて世の中の核磁気共鳴法の研究を理解できるようにしなくてはとの思いに駆られて文献のコピーの山を作ったこともありました。悲しいもので、その度に頭脳の限界を感じ、引き下がってしまう事を繰り返し、最近では後輩諸先生方の活躍を横目で見て声援を送っております。この20年の間の研究成果もさることながら、それと共にある数多くの人との出会いや出来事の記憶を大切にして、これからも脳神経外科臨床に励み、核磁気共鳴法の恩恵を臨床領域に還元して行こうと考えております。

                                    平成11年6月

MRのはじめの頃 -あるいはコンピュータ生活の始まりについて-
 明治鍼灸大学 脳神経外科教授

田 中 忠 藏


 磁気共鳴法を用いた研究に従事してから、20年あまりが経ちました。そこで、一区切りの冊子を作るとのことでこの文を書いているのですが、現在なおこの方法を用いた臨床、研究、指導を行っている身にとっては切実な問題もあり、はしゃいでいる訳にはいきませんが、MRの最初の頃について綴ります。
 研修医の時期に臨床業務のあと、医局で成瀬先生と話をしている内に何とはなしに研究を手伝うようになっていました。当時、脳神経外科医局では組織的な研究がほとんど行われておらず、当然、わずかな設備しかなかった。今はもう取り壊されてしまった鴨川に面した古い建物の西側の部屋で、ラットの脳を凍結乾燥し、神経線維を染める手伝がはじまりと思います。そのうち脳虚血モデルを調べて、ラットの頚動脈からケイ素粉末を注入する原始的な脳塞栓のモデル作りなどをするようになりました。確かこの少し前から、成瀬先生の科学研究費の連続記録が始まり、NMRの時代に続いていきます。この頃、脳神経外科領域において画期的な診断法となったCTが府立医大に導入されました。その診断の中心が成瀬先生と放射線科の山本先生でした。CTはEMI1010で、コンピュータ断層画像と呼ばれるようにはじめて医療にコンピュータを用いた画像診断が開始されました。当時、NECのTK80(ボードコンピュータ)が発売され、2~ 3 Kのプログラムを雑誌を基に打ち込む姿がCT室に見られるようになりました。普及のために2進法の講義からはじまるNECの講習会に参加するように言われたのが現在のコンピュータ生活のはじまりと言えます。
 臨床等で駆けずりまわっている内に少し余裕が出来、成瀬先生と堀川先生が始めていたNMRを用いた脳浮腫の研究に参加するようになりました。ラットの脳浮腫の作製、資料の作製、緩和時間の測定、その処理を堀川先生と2人でこなすようになりました。臨床業務を終えた夜や休日を、これも今はなくなった基礎校舎地下の狭いNMR室で過ごすことが多くなっていきました。学会発表に積極的に乗りだす成瀬先生の方針でいろんなところに出かけましたが、往復の新幹線や飛行機の時間は乗り込むとすぐに眠ってしまう大切な休憩場所でもありました。特に神経学会があった北海道では、学会を抜け出して大通公園のベンチでぐっすり眠ってしまったことが当時を象徴する記憶になっています。
 成瀬先生と組織緩和時間を求めるためにきれいな円や回帰直線が引けるパソコンを求めて、秋葉原を何度もさまよい、カタログに隅から隅まで目を通して、今はなき沖電気のパソコンにたどり着きました。その後、様々な装置を使うようになりましたが、カタログをなめるように読み、必要な性能が整っているのかを確認する習慣がいまだに残っている気がします。最近でも、装置の更新やコンピュータの入れ替えの際には、この癖が顔を出すようです。パソコンは、成瀬先生が使っていたPC8800の時代からいよいよPC9800になり、英文のワープロソフトを先生が探し出してきました。このワープロがType Ladyで、いわゆるベンチャーが出したばかりの製品、電動タイプライタに接続して印字するものでした。間違いが多く生じ、何度も一からやりなおすタイプライタに比べると優れもので、脳外科の医局でも結構愛好者が多かったようです。次に登場したのがMRグループでは名機の誉れ高いPC8200、2kg程度の英文用のポータブルコンピュータで、輸出が中心だったのでしょうか、32Kの大きな(?)内蔵メモリとメモリスロットを有し、限定された機能ながら優れた携帯性をもっていました。スロットに日本語対応のROMも発売されましたが、我々のグループでは主に英文ワープロとして用いられ、抄録の作成に威力を発揮しました。このコンピュータの登場から国際学会の発表数が飛躍的に増えていきました。これもタイプライタに接続して印字するものです。後々、様々な小型、ブック型、ノートパソコンなどを成瀬先生を始めそれぞれに所有したり使ったりしましたが、この携帯型コンピュータほど使われたものは少ない気がします。  
 こうして国際学会に進出しました。最初の学会は、平川先生、成瀬先生、田中の3人で参加したオランダで行われた「Brain Edema」でした。会議後に、エディンバラ、グラスゴーを経て、南回りで帰国しました。田中は、学生時代にヨーロッパに行ったことがあり、平川先生は勿論経験者でしたが、成瀬先生はこのときが初めてだったのでした。成瀬先生は、「この紙はなんや(出国カード)。」「これはどうするんや(入国カード)。」などと焦りまくりながら、反対に言えば全く知ったかぶりなどせずに、大騒ぎの出発でした。この頃の思い出を語るといくら時間があっても足らないくらいの話になってしまいますので、機会があれば、にして簡単にします。オランダの発表のあと、会のパーティが中世の古城で優雅に開かれました。この頃まで、成瀬先生の「これはなんや」、「どうするんや」が続いていましたが、英国にはいると、耳が慣れてきたのか次第に落ち着いて、こんどは一人で英語をブツブツ言うようになりました。最後のロンドンの宿では、ついに、寝言に英語が登場するまでになったのでした。エディンバラでは煤けた古い建物の間を、歩きまわってくたびれ果て、あげくに煤けたレストランで食事をしました。平川先生を先頭に、少しおいて田中、その少し後に不機嫌に疲れた成瀬先生と奇妙な取り合わせで歩いていました。これが平川先生のお得意の「外国の歩き方」であることに、後に気付くことになります。エディンバラの第一歩は決して印象の良いものでなかったのですが、この町の落ち着いた様子が後になって強くよみがえってくるようになったのが不思議です。
 その後、成瀬先生が直前に倒れて堀川先生と2人で参加したサンフランシスコで行われた現在のISMRMでは、2人ともに口頭発表だったので直前の夕食がのどを通らなかったことや、このとき一緒になった麻酔科の横野先生夫妻(「2人とも顔色悪く元気ないなあ」とのこと)に発表の予行を直前までお世話になりました。このISMRは米国を中心に開かれていたので、米国へ行くことが多くなりました。学会参加前後に、MRで有名な施設を訪問したり、レンタカーで国立公園などを数日間ドライブしてまわる方式が定着しました。当時訪れた、米国やカナダのロッキー山脈の大自然が印象に残っていますが、その道中を書き出すときりのない話になりますので、別の機会にと思います。

                                    平成11年6月

主なNMR関連業績

赤字は世界的に見て初めての仕事と思われるもの

青字は我が国で初めての仕事で重要と思われるもの

Table1
Table2

Table3

Table4

Table5

Table6

Table7

Table8

Table9

写真集

使用したNMR装置,MRI装置(1)

PFT100(JEOL, 100MHz); 京都府立医科大学第一生理学教室 (1979年‐1981年)

Minispec (Bruker, 20MHz) 京都府立医科大学脳神経外科学教室 (1982年-1985年)
TMR-32 (Oxford Research, 80MHz); 国立共同研究機構国立生理学研究所(岡崎市)(1981年-1982年)
Mark-J(旭化成, 6.3MHz)大野病院(大阪市)(1982年-1983年)
Biospec 360 (Bruker, 360MHz) 国立共同研究機構生理学研究所(岡崎市)(1984年-1986年)
SCM-200(JEOL, 200MHz)京都府立医科大学脳神経外科学教室(1984年-1990年)

使用したNMR装置,MRI装置(2)

CSI-II(Nicolet-GE, 200MHz)→Bruker Biospec (Bruker, 4.7T) 明治鍼灸大学MRセンター(1987年-現在)

CSI-II用の自家製Bird-cage Coil Dr. Michael Moseley (UCSF)と共同で作成 ⇒ 他の施設へも供給した(1987年)
Unity-Inova 300SWB (Varian, 7.0T) 京都府立医科大学中央研究室NMR室 (1995年-現在)

Gyroscan S15(Philips, 1.5T)VA Medical Center, San Francisco(1986年-1987年)
Gyroscan S15(Philips, 1.5T)明治鍼灸大学MRセンター(1987年-1997年)
Magnetome H15 (Siemens, 1.5T); 京都府立医科大学附属病院(1989年-2002年)

使用したNMR装置,MRI装置(3)

SMT-150X (島津製作所, 1.5T) 京都府立医科大学附属病院(1989年-2001年)
MRP 20EX(日立メディコ, 0.2T)ルイ・パストゥール医学研究センター(1992年-1997年)
Airis II(日立メディコ, 0.3T)ルイ・パストゥール医学研究センター(1997年-2001年)
Stratis II(日立メディコ, 1.5T)ルイ・パストゥール医学研究センター(1997年-2001年)

Signa Horizon(GE, 1.5T)明治鍼灸大学MRセンター(1997年-現在 )
Magnetome Symphony(Siemens, 1.5T)ルイ・パストゥール医学研究センター(2001年-現在

NMR研究グループおよび学会(1)

New York市内(3rd SMRM Meeting, New York Hilton Hotel);堀川、成瀬、田中、樋口(1984年8月14日)
University of Pennsylvania校内(3rd SMRM Meeting, New York後);田中、成瀬、堀川(1984年8月17日)
5th SMRM Meeting, Montreal;恵飛須、成瀬、堀川、田中、樋口(1986年8月21日)
5th SMRM Meeting後, GE Medical 本社前(Milwaukee);恵飛須、樋口、田中、成瀬、永井、堀川、他施設の諸先生(1986年8月25日)

NMR研究グループおよび学会(2)

第26回日本磁気共鳴医学会大会;国立京都国際会館正面(1998年9月24日)
第26回日本磁気共鳴医学会大会、特別講演(Dr. Mc Veigh;国立京都国際会館(1998年9月25日)
第26回日本磁気共鳴医学会大会、会期中メインホール;国立京都国際会館(1998年9月25日)

第26回日本磁気共鳴医学会大会;特別講演(Prof. Michael W. Weiner)国立京都国際会館(1998年9月25日)

NMR研究グループおよび学会(3)

International Symposium on Ultrafast Mag- netic Resonance in Medicine (ISUM99)の開会式(国立京都国際会館)(1999年1月27日)

ISUM99での真剣な質疑討論(Dr. Stephen J. Riederer)(国立京都国際会館)(1999年1月27日)
ISUM99での休憩時間中(Drs. Felix W. Wehrli, Rolf Grueter, Stephen Riederer,)(国立京都国際会館)(1999年1月28日)
ISUM99後の懇親会;Drs. F Jolesz, M Haacke, H Hatabu, R Edelmann, R Herfkens, M Takahashi, F Wehrli, J Hennig, R. Balaban, S Naruse(土井にて)(1999年1月29日)
府民公開医学講座;立花隆氏講演、国立京都国際会館(1999年1月29日)

府民公開医学講座;立花隆氏講演中、聴衆の方々、国立京都国際会館(1999年1月29日)