私のMRI 史: 尾澤 芳和

2022 年8 ⽉21 ⽇

私は現在72歳で国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構 (略称:QST) の量子生命・医学部門 量子医科学研究所 分子イメージング診断治療研究部で、派遣の技術員として機能分子計測グループで前臨床動物用MRI装置のオペレータをしています:2台の7T-MRI装置(ボア径が40cmと20cm)、1T-MRI装置、0.47TのNMR緩和計の操作、管理を担当しています。 この部の次長が2024年第52回日本磁気共鳴医学会大会長(予定)の小畠隆行先生です。 過去BRUKER、PHILIPS、BAYER (MEDRAD)でNMRやMRIと関わりある仕事に携わり、定年後QSTにお世話になっています。 遡って振り返ってみると、何かとNMRあるいはMRI、そしてQSTの前身である放射線医学総合研究所(略称:放医研、NIRS)、日本NMRの発祥の地である電気通信大学(略称:電通大)との因縁じみた関係があることに気がつき、ここで私自身のMRI史を振り返ってみたいと思います。

1946年  NMRの夜明け(世界)

1Hの核磁気共鳴現象(NMR)がEdward Mills Purcell、Felix Blochらによって発見されました

1950  日本のNMRの黎明期(NMR元年)

前の年に創設された電気通信大学で、日本で最初のNMR装置が製作され、この年NMR信号が観測されました。 高分解能NMRは、磁石も受信装置も日本では電通大が最初です。 この装置で世界で初めて銅(63Cu)の原子核磁性の値が測られ、コバルト(59Co)の原子核磁性の値が化合物によって異なること(ケミカルシフト)も最初に発見されました。 ヨード(127I) フッ素(19F) イオウ(33S)などの原子核磁性も測定されました。 この装置やその後につくられたNMR装置を使って研究した 荒田洋治 元東大教授(1988年第11回日本磁気共鳴医学会大会長)などの多くの研究者が、電通大から全国の大学や研究所に移ってNMRの研究をひろげました。

そして、後に私はこの電通大にお世話になることになります。

https://www.museum.uec.ac.jp/database/sf/sf550/s576.html

「黎明 電気通信⼤学コミュニケーション・ミュージアム第Ⅶ展⽰室への招待」より 我が国初のNMR分光器

この年    私は1950年7月3日に総武線「新小岩」駅前の旧国鉄職員宿舎で生まれました

1952  NMR研究に対してEdward Mills Purcell、Felix Blochらにノーベル物理学賞が授与されました

1955年  私は5歳の時 東京都豊島区駒込(ソメイヨシノ桜発祥の地)に引越し、ここから

1957年  東京教育大学(現 筑波大学)      附属小学校 入学
 → 附属中学校 → 附属高等学校 に通い、一浪を経て

1970年  電気通信大学(電通大)入学し 材料科学科、磁性体研究室に入りました

現在「材料科学科」は廃止され、旧材料科学棟である東10号館に先程の日本初のNMR装置のマグネットが展示されているコミュニケーション・ミュージアムが開設されました。 その場所は、まさに私が大学時代に主として講義を受けた教室です。

電気通信大学に電子計算機学科が増設されたのがこの年でした。 当時のコンピュータの入出力の主流は紙テープやパンチカードでメモリーはコア・メモリー、端末はテレタイプでした。 当時が日本の電子計算機の黎明期でもありました。

在学中「工学研究部」に所属し1971年8月号~1972年1月号の「トランジスタ技術」(CQ出版社)に「だれでもつくれる電子式卓上計算機DENTAC」の毎号16ページ、6ヶ月連載執筆を一人でまかされました(文章修行になりました)。 「DENTAC」とはDENTsu-dai Automatic Calculator の略で「電卓」を掛けた名称でした。

当時、やっと国産化することが出来るようになったディジタルIC(三菱電機製)、それもゲートやフリップ・フロップといった小規模なIC(SSI)を使用したシステムでした。 クラブ活動でエレクトロニクス工作に没頭し、量子力学や統計力学、固体物性論、磁性体論、ハミルトニアンなどといった学科本来の講義とは疎遠の学生生活を送りました。

電通大では化学系の学科だったのでNMRの実験もしたはずなのですが全く記憶がありません。 そして、つい最近定年するまでMRIにかかわる仕事に従事しながら、電通大が日本NMR発祥の地であることをついぞ知らずに過ごしておりました。 このころはNMRMRIとは無縁でした。

この頃、世界では

1973  NMRによる初の画像化:MRI(Paul Lauterbur:傾斜磁場の導入、Sir Peter Mansfield:EPI法の発明)に成功し2003年のノーベル賞に繋がっています

1974年  私は株式会社デジテックス研究所に入社(〜1982)し、エレクトロニクスエンジニアとして設計、製作、納入、保守(つまり全ての工程)を担当しました。 この会社は5人で始めた小さな会社で、頼まれれば何でも作る特注電子機器の会社です。

原子力研究所の配管漏洩検出機(1つの大きなログスケール・アナログメーターで5桁の抵抗値を表示)、フクダ電子の自動血沈測定器(10本のピペットを独立して同時に測定)、TEACのオーディオフェア展示向けオープンリールテープ → カセットテープ編集ダビング装置、ニコンのNASA搭載カメラ向け日付記録装置 などを製作しました。

この会社で唯一NMRにかかわったのはつくば研究学園都市の先駆けであるKEK(高エネルギー物理学研究所:現高エネルギー加速器研究機構)向け陽子シンクロトロン主リング用軌道生成磁石の磁場測定装置で、ホール素子で粗く測定した磁場に基づいて、消しゴムの生ゴムを信号源としたプロトン共鳴周波数を計数して主リングマグネットの詳細磁場強度を計算するものでした。 まだマイクロプロセッサが普及する前でしたので、ミニコンピュータ(NOVA)をそっくり組み込んだ装置でした。

この頃、世界では

1978年  NMRによる初の人体画像撮影(Nottingham大学、Aberdeen大学、Fonar社、EMI社)が行われました 1979年オランダ、BestのPhilips Medical Systemsの工場にてプロトタイプの常電動の 0.15T MRI プロトタイプシステムが設置されました。 患者の周りの四角い銅網がファラデーシールドになっているのでルームシールドは不要です。

最初の患者の写真(右)は1981 年5 ⽉11 ⽇にライデン⼤学病院から連れてこられた浮腫を伴うメニンジオーマの患者でした。

後に私はPHILIPSの社員としてオランダの⼯場の⼊り⼝に飾られたこのマグネットの実物を⾒ることになります

そして日本では

1981年  第1回日本磁気共鳴医学会 (JSMRM) 大会:有水大会長 が開催されました

               マグネットをBrukerから購入して、東芝が常電導 0.15T MRI装置を那須工場で試作しました。

1982年  東芝が常電導 0.15T の臨床研究を開始(試作MRIを大井町の東芝病院に移設)しました。

               日本初の臨床用MRI装置 Fonar社 QED-80α(0.05T 永久磁石)が中津川市民病院(岐阜県)に据付けられました。

1982年  私は日本Brukerに入社(〜1986)して、FTIRやNMR装置の設置、保守に従事することになりました。

1983年  Bruker はBNT-1000J (0.14T 常電導)を東北大学抗酸菌病研究所(現加齢研)に据付けました。 これは国立大学初のMRI装置だといわれています。 この時の東北大学抗酸菌病研究所長は松澤大樹(第3回日本磁気共鳴医学会1983大会長)先生です。 このころ私は毎週のように筑波から仙台に車で通い、設置作業のサポートを行いました。 最初の週末は仙台に居残ったので、蔵王で軍手・作業着の春スキーを楽しみました。

メインマグネットは4つのリング状に巻かれたコイルを球の表面上に配置して磁場均一度を得るように構成しました。 コイルの巻線は太さ1cm以上の銅角パイプでこの中に高速の水を流して60kWの消費電力による発熱を冷却していました。磁場の方向は体軸方向の横磁場型です。 したがってヘッドコイルは鞍型でした。 磁場が安定するまでには電源を入れてから1時間以上かかりました。   静磁場の均一度を上げる「シミング」はこれら4本のリングを物理的に正しく配置することで実現していたのですが、この設置作業中、しっかりリングを固定する前に地震があって、せっかくの調整が台無しになってしまったことを覚えています。 ドイツではほとんど地震がないのでドイツから来た技術者にとって地震は全く念頭にありませんでした。

 このコイルに250A程度の定電流を流して0.14Tという磁場を得ているわけですがその制御にトランジスタ(2N3055)を百個近く並列接続して、コイルと同じ水冷システムで冷やしながら使用していました。 背丈ほどに巨大な3相で垂直移動の電動スライダックが連動していて、トランジスタ自体に大きな電圧がかからないように制御していました。 トランジスタはそれぞれにヒューズが付いたソケットを使用して固定されていたので容易に交換できるようになっていました。 

これと同じマグネットを使用していた東芝のMRI試作機のトランジスタ交換のために何度も大井町の東芝病院を訪れた記憶があります。 この時、東芝でMRI装置を開発中の巨瀬勝美先生(2010年第38回日本磁気共鳴医学会大会長)にお会いしました。

画像の収集方法は、磁場を回転させて投影プロファイルを得て再構成する投影再構成法(Projection reconstruction technique)という、X線CTと同じ画像再構成法でした。 

X線CTでは物理的にX線管球と検出器を回転させる必要がありましたがMRIではグラディエント・コイルの電流を変化させることで読み取り磁場(R)を電気的にベクトル合成して回転させており、物理的なあるいは機械的な回転は不要でしたし、何よりも全く自由な断面の画像が得られるのがX線CTにはないMRIの特徴でした。 スライス選択は励起時にスライス方向の傾斜磁場電流に低周波(AF:Audio Frequency)の交流を重ねることで実現していました。

撮像断面が全く自由であるというMRI の特徴に大喜びであったのが当時酸菌病研究所で医師のかたわらケセン語の研究をしておられた山浦玄嗣先生(ギリシア語の原典から「ケセン語訳聖書」を翻訳し、ローマ教皇庁に献上し、ヨハネ・パウロ2世から祝福を受けられました)でした。 矢状断画像が非侵襲で得られることでさっそくケセン語の発音時の舌の動きを撮っておられました。

1983年  旭化成が Mark-J (0.1T 常電導)を放医研に据付けました(旭化成は 後のシーメンス旭メディテック)。

1983年  国産初のMRI として、東芝が MRT-15A を発売:1号機を慈恵医科大学に据付けました。 これが世界初の薬事承認を受けたMRI商用機だそうです。

この頃、世界では

1983年  Philipsの最初の製品がGyroscan R5(常電動0.15T)としてオランダ・ライデン大学病院に設置されました。

1984年  私は2~6月にかけて初の海外出張でドイツ・カールスルーエのBruker本社を訪れ測定装置(主にNMR)の端末の日本語化の手伝いをしました。

当時民間航空機は旧ソ連の上空を飛ぶことが許されず、30時間以上かけて、いわゆる「南回り」で成田発 → シンガポール → ドバイ → チューリッヒ → 経由でフランクフルトに行きました。

1985年  現在のつくば市で国際科学博覧会が開催され、西ドイツ館でBruker、Siemens、Philipsの3社による「MRI週間」のパネル展示がありました(Philips本社はオランダでしたがMRI開発拠点は西ドイツ・ハンブルグにありました:それで「西ドイツ」館出展ということになりました)。

筑波科学博覧会での Bruker の説明員として、私も参加しました。 

1986年  日本PhilipsがGyroscan S5(0.5T)を名古屋市立大学病院に設置しました。

ここでMRI担当の放射線技師をなさっていたのが宮地利明先生(2018年 第46回磁気共鳴医学会大会長)でした:上の写真でガントリーの向かって左側に立っておられます。

1986年  科学博での縁で日本Philipsに入社(〜1999年)することになり、MRI装置の営業技術として、営業の技術的サポート、学会や研究会での説明、納入後の取扱い説明などを担当することになり、入社早々トレーニングのためオランダ・アイントホーヘンに出張することになりました。 このときは「北回り」のアンカレッジ経由で北極上空を通過してアムステルダムのスキポール空港に行きました。

  オランダでのトレーニングはアプリケーション・スペシャリスト養成コース(参加者の多くは医師や技師出身)でした。 装置の原理などのテクニカルなパートは英語が大の苦手の私でも追いつくことができたのですが、メディカルパートはなじみのなかったメディカルターム(”Osteosarcoma”の至適撮像パラメータや ”Multiple Sclerosis” でのMRIの利点のプレゼンなど)で非常に苦労しました。

帰りはオープンチケットの利点を有効に活用してモントリオールでの国際MR学会での機器展示を経由してアメリカ大陸上空を横断するルートで帰りました。 この時東大の飯尾正宏教授(1985年第5回日本磁気共鳴医学会大会長)がすぐ近くの席で同乗していたことを覚えています(一介の技術者としては恐れ多くてお声がけすることはできませんでした)

1986年  日本PhilipsがGyroscan S15(1.5T)の日本1号機を京都府の明治鍼灸大学(現在の明治国際医療大学)に設置しました。 Gyroscan S15はデータ収集系(RF系)の帯域幅が広く多核種のスペクトロスコピー(MRS)にも対応していました。

1987年  3月:米国サンフランシスコのUCSF・VA-Medical Center(Dr. Michael Weiner)に1月ほど派遣され、明治鍼灸大学に設置したGyroscan S15のため31P-MRS(リン・スペクトロスコピー)用ヘッドコイルのコピー制作並びにスペクトロスコピー用コイルの設計作成方法の習得を行いました。

Dr. Michael Weiner, MRI specialist, San Francisco Veterans Administration Hospital

当時MRSのトレーニングのために同センターには、明治鍼灸大学のサポートをしていただく京都府立医大の成瀬昭二先生(998年第26回磁気共鳴医学会大会長)や日本大学板橋病院の佐貫榮一先生も滞在されておりました。 

ここで習得した技術をもとに聖マリアンナ医科大学用にも頭部用(下左)と、心臓・肝臓用(下右)の31P-MRSコイルを作成しました。

コイルのマッチング(コイルインピーダンスを50Ωに合わせる)のために2つの可変容量キャパシタを差動動作させる必要がありましたが、その機構にLEGOの歯車を使用しました(もう1つの可変容量キャパシタはコイルの共鳴周波数をあわせるチューニング用です)。 調整棒との接続や、一部の調整棒自体にもLEGOを使いました。

1987年  放医研PhilipsのGyroscan S15 (1.5T 超電導)が納入されました(後に同-ACS IIにアップグレードされました):私は初めて定期的に放医研を訪問することになりました。 

この頃、世界では

1988年  Philipsは画期的に小型軽量で斬新なMRI装置Gyroscan T5を発表しました。

PhilipsのMRI装置Gyroscanは常電導の「R」シリーズから始まり、超電導の「S」シリーズを販売していました。 そこで、画期的に小型軽量なマグネットを使用した新シリーズをアルファベットの並びから「T」シリーズと銘打ってまず0.5Tの「T5」を発売しました。 テーマソングとしてジャズの名曲「Take Five」が採用されました。

ちなみに「R」シリーズは世界で数台販売されたのですが「S」シリーズの発売とともにPhilipsの費用負担ですべて「S」シリーズにグレードアップされて、無くなってしまいました。

Philipsが所有していたサッカークラブ(PSV:Philips Sport Vereniging)の本拠サッカースタジアム(Philips Stadion)で世界で初の「T」シリーズのお披露目を行い、軽量(2.5 ton:それまでのMRI用マグネットは約10 ton)を謳うためマグネットが小型ヘリコプターで運ばれて空から会場のサッカーコートに登場するという演出が採用されました

グラディエント・コイルをセメントでガチガチに固定したため、MRI特有の大きなグラディエントノイズが大幅に削減されました。

アクティブシールドが採用され、「S」シリーズで必要だったドーム状の磁気シールドが不要になりました。

一方、患者ガントリーのファラデーシールドが無くなったので他社のMRIと同様なルームRFシールドが必要になりました。

1988年  3月の朝夕が暗い中、北極圏に近いノルエーのトロンハイムでMRSのユーザートレーニングが行われ、放医研の福田寛先生や、聖マリアンナ医大の今村恵子先生(第7回日本医学物理学会大会長1990年6月@東京)らが参加し、サポートとして私も同行しました

1989年  1月~3月:米国サンフランシスコのUCSF・VA-Medical Center(Dr. Michael Weiner:2Tにアップグレードされていました)に派遣され、国立精神神経センター武蔵病院向けの2テスラ・プロトン用ヘッドコイルのコピーを作成しました(31Pスペクトル用のコイルはすでに稼働していました)。 当時2テスラの装置は臨床用市販システムではなくボディーコイル以外のコイルはハンドメイドでした。

上はリン用のヘッドコイルで得られた全脳の31Pスペクトルです。

鋭いスパイク状の高いピークはPCr(ホスホクレアチン)で、その右はANP*の3つ(左からγ、α、β)のリン酸基のピークです。 ベースラインのなだらかなハンプは生体膜のリン脂質(液晶状なのでピークがブロードになっています)によるものです。 

*:  ANPはATP(Adenosine TriPhosphate)とADP(Adenosine DiPhosphate)を含みます

1990年  放医研の Gyroscan ACS-II 向けにNa(ナトリウム)ヘッドコイルが出荷されました。

商用品ではない剥き出しのコイルがオランダから送られてきたので、私がカバーを作成してお化粧を施して納入しました。

1994年  日本Philips ユーザートレーニングがスイスのETH(Eidgenössische Technische Hochschule:スイス連邦工科大学)チューリッヒ校(「SENSE」発祥の地)で開催され、放医研からは小畠隆行先生(第52回日本磁気共鳴医学会大会長2024年予定)が参加され、私もサポートスタッフとして同行しました

1995年  阪神淡路大震災:私は直前に予定を決めてあったため震災直後に被災地のはずれ、兵庫県川西市に引越しました(社会インフラが復興するまで数ヶ月間引越しを待たされました)。

1995年  放医研は日本Philips から Gyroscan T5 -II(0.5T 超電導コンパクトマグネット) を購入しました。

1996年  私はオランダにてMRI装置製造設置のトレーニングを受けることになりました(日本のサービスマンとオランダとのインターフェースの役割を担うためです)。

9か月にわたってオランダにおける最終組み立て検査工程に立ち会い、MRI設置サービス技術を習得しました。

1999年  日本Medrad(後にSchering を経てBayer)に入社し、開発されたばかりの「MRI造影剤用インジェクター」のアプリケーションスタッフとして日本中を走り回ることになりました。

この頃、世界では

2003年  MRIの発明に対してノーベル賞 Paul Lauterbur、Sir Peter Mansfieldが授与されました。

2007年  放医研で大型実験動物用400mmボア、7Tの自己シールド型(世界初)超高磁場MRIを神戸製鋼と共同開発しました(独法成果活用事業)。 このマグネットは液体窒素を使わず、ヘリウム液化装置を備えていてボイルオフもゼロでした。

2010年  私はBayerを定年退職しました。

2011年  東日本大震災直後の10月:放医研で上記の装置を含む2台の7T前臨床MRI装置のオペレータ(〜2022年)をすることになりました。

<おまけ>

上記の放医研/神戸製鋼製大型実験動物用400mmボア、7.0Tの自己シールド型MRIで撮像した植物の画像集です。

何を撮ったのか推理してみてください。

前臨床動物用なので臨床用のMRIと異なりボア径が小さく、かつマウス用ボディーコイルを使用しているので、撮れるFOV3~4cmと小さめです。

以下に答えとして普通の写真を示します.

いかがでした?当たりましたか?