計測と制御を専攻し大学では情報処理を、大学院では画像認識をやっていたのですが紆余曲折あって気象研究所(Met.Res.Inst.)に就職しました。気象を情報処理の面から研究できればいいなと思っていましたが叶わず、つくば移転とプロジェクトの終了を機に転職を決意しました。そんなある日新聞で横河電機の中途採用広告を見つけ、募集対象にはない制御理論の研究職として応募できるか問い合わせました。履歴書を出すと「受けてください」と言われ、面接時に画像認識の話を詳しく聞かれただけで採用されました。この時の面接官がYMS初代社長の杉山卓専務(当時)です。1980年3月に入社、私が30歳の時です。すぐに研究開発部でCT画像再構成アルゴリズムの開発を命じられました。当時の横河電機にはディジタル技術、情報処理、数学分野にわたる人材が皆無で、相談する人も無くとにかく画像再構成に関する文献を集めては読破。フィルタードバックプロジェクション法をプログラムに組んで、シミュレーションスキャンで作ったファントム投影データを画像再構成し、5月連休直後の社内発表会で成果発表、研究報告書の提出をしました。その後はGE製CT8800のサービスをしている青梅工場で実機のスキャンデータや較正用データ、画像データをヘキサダンプしてデータを抽出、そこでどんな処理が行われているのかを探りました。そのころからGE 日本支社のAl Lubrang社長が時々現れては研究経過をチェックし、前処理についてのヒントをいろいろ教えてくれました。やっていた研究はGEとの契約もあり外部発表や特許出願は難しかったのですが、自分の研究としてフィルタードバックプロジェクションの数式を導出しようと納得のいくまで考え続け、1年後に「画像の2次元フーリエ変換の逆フーリエ変換は元画像に等しいという恒等式を極座標に変数変換すれば出てきて、Ramachandranなどのフィルターは変数変換時のJacobianだ」ということに気付き、研究には文献に出てこない障壁があることを知りました。当時はRadonの式から導いたような記述ばかりでしたから。
横河の体制が整ったとLubrangが判断したのでしょう、GEは横河とのジョイントベンチャー(YMS)を立ち上げ、私もその半年後位に移籍しました。その後CT8800の技術情報を受け取りに数人でミルウオーキーの工場に行きました。私はCT8800のアルゴリズムを作ったGary GloverとNobert Pelcから全処理の説明を受け、Gloverからは彼がいつも使っている処理プログラムのプリントアウトをもらいました。彼のプログラムはユニークで奥深く、データ処理のいい勉強になりました。処理内容は事前に熟考していたので一言二言で全容が理解でき、「なぜそうしたのか?私はこう思っていたんだけど」などと聞いていたのですが、引率の上司に「質問はせずに黙って結果だけ聞くよう」厳命され、惜しいチャンスを逸したとがっかりしたのを覚えています。ミルウオーキーで1か月後に開かれた第2回の技術ミーティングではすべての処理プログラムを自作して再構成した画像と、それでも一致しないSIGNAの再構成画像、その合わない原因がまだ何か隠している処理のためだという証拠の実験データをプレゼンしました。発表が終わるとGEのSEたちから非難の怒号が飛び、引率の上司も沈黙してしまいましたが、Pelcが「彼の言っていることは本当だ。」と言ってくれて事なきを得ました。きっとGloverとPelcが私をテストしたのでしょう。
GloverとPelcはまもなくCTを離れてMRIの研究に移り、数年後にはスタンフォードに行ってしまいました。その後釜にはPETの研究をしていたJim Kolsherがなったのですが、何があったのかGloverからCT8800アルゴリズムを教えてもらえず、困ったRich Kinsingerが私に「Kolsherに教えてくれ」るよう頼んできました。彼も一度ですべてを理解し彼なりにそれを作り直したようです。それがCT9800です。
CTでは技術や製造をすべてYMSに持っていかれたからか、MRIについてはいろんなところでGEに制限を付けられました。画像再構成や前処理アルゴリズムは簡単なのでCTのように教えてもらうこともなく、研究グループからは私の初めての部下だった星野和哉だけがMRI立ち上げに参加し、私はCTを続けていました。でもいろいろ技術的な問題が出てきたので私もMRIグループに呼ばれました。横河電機主導の常温電磁石MRI開発とそのあとのYMS製0.5T RESONAの開発です。私は問題が起こった時のコンサルタントという立場でした。その間CTのとき同様NMR、MRIに関する教科書、論文、SIGNAのカタログ等を集めて読み込み、数式解析や計算機シミュレーションで理解を深めていました。パルスシーケンスごとの画質評価や、磁場歪が画像に与える影響なども検討しました。
第一回のMRI医学会はつくばで、亀井裕孟さんが大会長だったと記憶していますが、会場で道を尋ねた人が亀井さん本人だったみたいで、それが多分亀井さんとの最初の出会いでした。その後、YMS2代目社長の河瀬晨一に「私の代わりに世界一周漫遊旅行をしてみないか?」と言われて参加したのが亀井さんを団長にJETROが資金提供した「MRIとSQUIDの視察旅行」で、国内数社のMRI製造会社の人が参加していました。サンフランシスコのUCSFではProf. CrookにMRI装置と研究内容を見せてもらい、フィラデルフィアではBriton Chanceに会い、ニューヨーク、ヘルシンキではSQUID見学。オスロ経由のアバディーンではProf. Mallardとの話のあと、もうその頃は引退していたMARK-Jを見せてもらいました。結局一番質問が多かった私がMRIの視察報告を書くことになりました。でも質問に丁寧に答えてくれる方ばかりだったのでとても勉強になった旅でした。亀井さんとも色々話せたし。
RESONAが一段落すると研究部門への期待度は下がり、新人が最初の1~2年だけ居る教育機関みたいに扱われていましたが、中途入社でマーケティングに来た永澤清に誘われてSIGNAの顧客研究サポートを手伝うことになりました。私はMRIを応用の面から見るつもりでした。仕事としてはサーフェスコイルの特注品作りが多かったのですが、実働は森谷浩人などに任せ、私はビオサバールの定理をプログラム化してバードケージコイルやサーフェスコイルの磁場感度計算、キルヒホッフの法則によるバードケージコイルの解析、ケーブルやハイブリッドを付けた時の周波数特性解析などをやって後方から支援をしていました。
MRAが始まった時には、永澤がスケネクタディ(CR&D)のChuck Dumoulinに話を通してくれたので実働は池崎吉和に任せ、私はphase contrast法の数値解析やシミュレーション、TOFとの比較検討などを繰り返していました。
GEとの関係ではミルウオーキーのKinsingerが私のカウンターパートでMRI関係のASL(Appl.Sci.Lab.)レポートはすべて送ってもらい、読んでは数式を追ったりシミュレーションをやったりして確認していました。だからCarl CrawfordやScot Hinks、Tom Fooなどの研究はすべて理解していました。そのうちにスケネクタディのボスRed Redingtonがサバティカルで1年程度日本に居てCR&Dとのコネクションを作ってくれました。そこでGEYMSからも(サバティカルみたいに)6か月ごとにCR&Dに人を送ってつながりを深めようということなったようです。最初に行った星野さんはアパート探しや契約、家具などの買い揃え、電話の申し込み等々相当苦労したようです。サバティカルというよりサバイバルですね。私はその次に行ってRedingtonのもとで研究マネージの見習いをし、ミルウオーキーと行き来していろんな人に会っていました。ここでは研究は何もしませんでしたが、Chuck Dumoulin、Bill Edelstein、Paul Bottomley、Chris Hardy、Pete Roemer、Otward Mueller、Steve Souza、Jhon Schenkらと毎日のように顔を合わせ、今まで分からなかったことなどを聞いて回っていたので勉強になりました。Bottomleyには何でHではなくPに固執しているのか聞いたら、「暗がりで落としたコインをここは暗くて見えないから街灯がある所で探そうというのはおかしいだろ。」と言っていたのが印象的でした。帰国後上司に次の候補者を聞かれたので2名の名を上げたら、その2名でサバティカルは打ち止めになりました。
MRIを始めた頃にやってみたかったことは10年余りで大体片がついてしまったし、やりたいことをやってしまうとMRIにはもうあまり興味がなくなったので、仕事は後の人に譲って私はGEYMSを辞めました。